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中世期彩る松山城攻防戦 今残る武士(もののふ)の夢の跡

 北条氏康・氏政親子、武田信玄、上杉謙信、前田利家など、戦国時代を代表する武将たちが大軍を率いて戦った城がある。戦国の名城といわれた松山城である。取ったり取られたりの戦いは、幾多の伝承を後世に残した。(岩瀬 翠)
 

堅固な防御の城・松山城

  松山城は15世紀後半、古河公方足利氏・山内・扇谷両上杉氏らによる、関東の動乱を背景に築城されたと考えられている。

三方を川に守られた丘陵上にあるこの城の特徴は、なんといっても空掘を多用した巧みな防御態勢であろう。西から東に向かって本曲輪・二の曲輪・春日曲輪・三の曲輪が一直線に並び、それらを取り囲むように大小さまざまな腰曲輪が配置され、曲輪の周囲は傾斜の急な切岸と大規模な空堀が取り巻いている。堀で敵を討ち取ることが防御の中心となっている。 

外側の曲輪より内側の曲輪が高くなるように造成されていて、外側から城内が見通しにくく、城内からは外側の曲輪が良く見えるようになっている。この城の優れた防御施設は、歴代の城主による増築と、後北条氏の築城術により完成されたものと思われる。

松山城風流歌合戦 

天文6年(1537)7月、北条氏綱は河越城を攻略。上杉朝定は、難波田弾正が守る松山城に敗走した。朝定を追ってきた北条軍と城の外で戦っていた難波田弾正は、寄せ手の大軍を見て、利あらずとして城へ引き下がる事にした。これを見た敵将山中主膳が馬上から弾正に問いかける。

「あしからじ よかれとてこそ 戦はめ 何か難波田の くずれゆくらん」。問われた弾正は駒を返し「君をおきて あだし心を 我もたば 末の松山 波もこえなん」と返したという。これは「関八州古戦録」に登場する逸話である。この時、後北条軍は、松山城を攻略できず、やむなく城下に火を放って引き上げた。

 難波田弾正は、富士見市南畑に本拠をおく扇谷上杉家の家臣で、天文15年(1546)の河越夜戦の折、上杉朝定とともに討ち死にしている。難波田氏ゆかりの城跡として、保存されているのが難波田城公園である。

三楽犬走る

 永禄3年(1560)から6年(1563)にかけて、甲斐の武田氏や岩槻太田氏をまきこんで、後北条氏と上杉氏の間に松山城争奪戦が展開された。

岩槻城主太田資正(後の三楽斎道譽)は、河越夜戦で後北条氏に奪われた松山城を、夜陰に紛れて奇襲をかけ奪還するなど、知略に長けた武将であった。永禄5年(1562)後北条・武田連合軍は松山城攻めを開始した。ところが城を囲むと、時をおかずして岩槻から援軍が到着。なかなか松山城を落すことができなかったという。

実はこれ、軍用犬の活躍による。資正は敵が来襲した時に備え、岩槻城で飼いならした犬を松山城に、松山城で飼いならした犬を岩槻城に置いていた。犬の首に救援依頼の文書をつけ岩槻まで走らせる。なかなかの名案だ。犬は敵勢の間を難なく走りぬけ、2時間ほどで岩槻城に着いたという。

 また資正は領内において寺社や六斎市保護政策を行い、領民の人心安定に努めたが、後半生は悲運であった。嫡男氏資は、資正の留守を狙って城を占拠、父と弟を岩槻城から追放してしまったのである。その後、常陸の佐竹義重の客将として片野城主(石岡市)となり、岩槻城復帰をひたすら願ったが実現せず、天正19年(1591)9月8日片野城で70歳の生涯を閉じた。

           太田資正(wikpediaより)

武田信玄と上杉謙信の松山合戦

 上杉氏が事実上滅びた後も、岩槻の太田資正は、後北条氏に対して頑強に抵抗を続けており、松山城はその最前線であった。永禄4年(1561)上杉憲政の名跡を継いだ上杉謙信は、旧上杉領奪回のため北武蔵に侵攻。太田資正は謙信の軍勢とともに松山城を包囲し奪還に成功、上杉憲勝が松山城に入った。

永禄5年(156211月、武田・後北条連合軍は越後勢の弱点である豪雪期を狙って松山城攻めを開始。堅牢な松山城を、正攻法で攻撃することを断念した武田信玄は、甲斐から金堀人足を呼び寄せ、城内に向かってあらゆる方向から掘りすすめた。櫓2つを掘りくずしたが、多大な犠牲者を出しこの作戦は失敗に終わる。

一方の上杉謙信は、同年12月に越後を出立するが、豪雪期の山中行軍は容易なことではなかった。松山城主の上杉憲勝は越後勢の救援をひたすら待ち望んだ。上杉謙信が到着する前に決着をつけたい武田・後北条連合軍は、上杉憲勝に和睦を持ちかける。これ以上の防戦は無理と判断した憲勝は、松山城を開城する。上杉謙信が武州石戸に着陣したのはその後のことである。 

 以後、松山城は後北条氏の勢力下で上田氏の居城となる。

 

松山城の終焉

 豊臣軍の攻撃が必死となった天正18年(1590)3月、最期の松山城主となった上田憲定が、松山町の本郷町人衆と新宿・本宿あてに送った礼状が残されている。それによると、松山の町人たちは「もし松山城に秀吉軍が攻めてきたら、挙って篭城して戦おう」と合意しているそうで嬉しい事だ、という内容の文書である。

 前田利家を総大将に、上杉景勝・真田昌幸・毛利・小笠原の大軍に囲まれた松山城は、城主の上田憲定が小田原城に篭城し不在であった。大軍を前に戦意を喪失した城兵は、城下の僧に仲介を依頼して降伏。天正18年(1590)5月2日、松山城は戦わずして落城したのである。地元正法寺に伝わる「岩殿山正法寺縁由」には、この時「軽卒(雑兵)・所民(住民)都合2千人たてこもる」と書いている。

 徳川家康の関東入府後は、松平家広が、家広没後は松平忠頼が継ぎ、忠頼が浜松に移封後の慶長6年(1601)松山城は、その幕を閉じた。

 松山城跡の周辺には吉見百穴・吉見観音・吉見町埋蔵文化財センターなど見所があり、格好のハイキングコースとなっている。平成20年3月国指定史跡となった。

(本記事は「東上沿線物語」第19号=200811月に掲載したものです。2020年7月松山城記事はこちら