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戦国時代の城、松山城
扇谷上杉、後北条氏の拠点

 東松山市の国道407号を折れて、古墳時代横穴墓群の吉見百穴(吉見町)に向かうと、正面に均整のとれた形の大きな丘陵が立ちはだかる。戦国時代の城郭であった松山城の跡だ。北武蔵の玄関口という戦略的に重要な立地で、扇谷(おおぎがやつ)上杉氏、後北条氏の拠点として歴史の舞台となった。(松山城攻防の歴史はこちら
 

北武蔵の丘陵・山間部の玄関口に位置する

松山城跡は、比企丘陵の先端部にあたる。周囲は市野川が形成した低湿帯が拡がり、東方は関東平野で一面の低地が続く。

 

 
   

 北武蔵の丘陵・山間部の玄関口に位置する自然の要害であり、自然の山を整備して城にした平山城だ。立地・形態的に守るのに適している。西方の丘陵地帯には中世の山城が集中し、菅谷館跡(嵐山町)、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに比企城館跡群として国指定史跡となっている。

   

1400年代の後半、扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の拠点として築かれる

最初に城が築かれたのは1400年代の後半ではないかと言われている。当時、関東地方では扇谷(おおぎがやつ)上杉氏と山内上杉氏が領地の争いをしていたが、扇谷側の押さえの拠点としてだ。

1400年代後半は扇谷と山内の合戦の攻防の拠点として機能していたが、争乱の過程で後北条氏がやってくる。1537年には小田原の北条氏綱が江戸城・川越城を攻略し、松山城を攻めたという記録がある。1546年の河越夜戦で後北条氏は関東を制圧し、松山城も北条方になる。その後、長尾景虎が上杉(謙信)を名乗って関東に入ってきて、北条と上杉の戦いが始まり、松山城の支配も頻繁に入れ替わる。それが落ち着いたら豊臣秀吉が小田原を攻略、松山城は前田利家、上杉景勝らの軍勢に攻め落とされた。関東には徳川家康が入ってきて、松山城は1601年廃城になる。

後北条氏の時代は上田氏が城主

後北条氏の時代に松山城の城主は上田氏だ。上田氏は相模の出で、扇谷上杉の重臣だったが、後北条方に降参した後も他国衆という位置づけで所領を安堵された。八王子城や鉢形城は北条一族が城主で、松山城より格が高かったようだ。

 難波田弾正(憲重)も、上田氏と同様、扇谷上杉の家臣で、一緒に山内や北条と戦った。しかし、難波田弾正は河越夜戦で討ち死にした。

当時の曲輪と掘が残る

松山城の遺構としては、本曲輪(くるわ)や二ノ曲輪をはじめ大小様々な腰曲輪、周囲には空堀と切り落としの跡などが残っている。曲輪とは、濠や石垣、土塁で区分けされた平な場所。何らかの建物があったとみられるが、どのような建物があったかは不明だ。

   
                       本曲輪

城の周辺には当然人が住む。各地の城の周囲にある根古屋という地域が吉見にもある。東松山方面には元宿や新宿という地名がある。

「松山城」という名は、当時松山領という言い方をしていたことからついたようだ。 

近くに観光地化した吉見百穴があるが、百穴は松山城より先にあったもので、城とは関係ない。百穴の墓は今は表に出ているが、そうなったのは明治以降で、以前は木に覆われたただの山だった。

松山城の下に、戦時中軍需工場が造られた。掘っている途中で終戦になった。今でも残っている。百穴にも軍需工場(中島飛行機)が建設され、これも稼働前に終戦になった。 

吉見町としては、今後史跡の保存と活用に取り組んでいきたいという。

(本記事は、吉見町教育委員会文化財担当者のお話、松山城説明資料などにより作成しました。取材2020年7月)    「松山城攻防の歴史」はこちら 、「岩窟ホテル」 はこちら