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電力王・松永安左エ門と新座
平林寺、睡足軒、柳瀬山荘

″数寄者″の遺産、地域を豊かに

松永安左エ門は、明治から昭和にかけ「電力王」と呼ばれた大実業家である。同時に、「耳庵」の号を持ち茶人としても知られる。この松永のゆかりの施設が、新座市とその周辺に点在する。それらを訪ね、稀代の数奇者の人となりに思いをはせてみよう。

(本記事は、「東上沿線物語」第4号=2007年8月に掲載したものです)
 

  

松永安左エ門17851971

長崎県壱岐の生まれ。明治から大正にかけ、九州電気、東邦電力、東北電気など電力、ガス事業を次々と興し、「電力王」と言われた。戦後は、電気事業再編成審議会会長として電力民営化を強行し、九電力体制を築いた。六十歳になって目覚めた茶道に打ち込み、古美術の収集など数寄者の名をほしいままにした。論語の「六十にして耳に従う」から「耳庵」と名乗った、昭和の大茶人である。


松永の別荘であった柳瀬山荘

政財界要人が茶会

  川越街道(国道254号)と浦和所沢バイパスの交差する近く、小高い山の上に、松永安左エ門の別荘であった柳瀬山荘がある。現在は、国(東京国立博物館)が「柳瀬荘」として管理しているが、うっそうとした雑木林に覆われ、建物が道路から見えないこともあり、ここにそのような文化財が存在することを知る人は少ない。

 松永は昭和4年、旧柳瀬村に広大な土地を買い求め、山荘を造営した。山荘には当時の首相をはじめ政財界の要人が招かれ、茶会も頻繁に開かれた。

住居として使われていた建物が、黄林閣。天保年間に建てられた東村山の大庄屋の住まいだったのを、松永がここに移築した。現在は、貴重な武蔵野民家として、重要文化財に指定されている。

            
                           黄林閣

 荘内にはこのほか、数奇屋風書院造の斜月亭、越後の土岐氏の茶室であった材料で建てた簡素な茶室の久木庵がある。いずれも、数寄者耳庵が精魂傾けて作り上げた理想の空間である

              
                           久木庵

 毎週木曜日しか公開されていないが、松永の構想、特に茶人耳庵の趣味の奥深さを知るには、ぜひ訪れてみたい場所である。(所沢市大字坂の下437、問い合わせは042・9442009)。

ゆかりの平林寺

 〝仁王様〝を寄進   お墓はつつましく


 松永と平林寺の関わりは深い。自らの菩提寺とし、山門の仁王像も松永が寄進したものだ。境内林内にある「睡足軒の森」も、元は松永の茶室だった。これらゆかりのスポットを、地元の、にいざ歴史文化研究会の棚橋利行さんにご案内いただいた。

平林寺山門の金剛力士像

 この像は金剛力士という、いわゆる仁王様ですね。これは耳庵さんが、どこかの古いお寺が廃寺になったところから譲り受けて、寄進をしたものです。いつなのかは記録がありません。

                          
                                   山門の金剛力士像

 ふつうは禅寺にはこういうものはない。後から入れたものですから、門より造りが大きい。バランス的にサイズが合わないんです。

 平林寺二十二世老師、敬山禅師の時代(昭和15年~50年)に解体修理が行われました。そのとき中を調べたようですけれど誰が作ったとかの銘はなかった。専門家によると鎌倉時代だろうと。一時運慶作かとも言われたが、そうではないようです。


松永夫妻の墓所

 これが耳庵さんのお墓です。新しい墓石は後から作ったもので、本来のお墓はこういう質素なものなんです。ちょっと考えられないですね。お葬式もしない。法名もないと。あれだけの人なんだけど、私的には質素な方だったそうです。

             
                  つつましい墓石

 奥様の一子さんは、昭和33年に耳庵さんが84歳のときに亡くなりここに葬られている。耳庵さんは46年、97歳でお亡くなりになった。

 耳庵さんは生前に平林寺を深く帰依され、ここ平林寺を自分の菩提寺にしたんでしょうね。柳瀬山荘からこの森が見えていたそうです。

薬師堂

 ふつうは入れないところですが。薬師堂というのが、本堂の裏にあるんです。耳庵さんが、睡足軒に最初持ってきて、それをいったん小田原に移したが、お亡くなりになってからまた持って帰ってきて寺に寄贈したらしいです。

睡足軒

 ここは江戸期に、上野国・高崎藩の飛び地、陣屋があったところです。それを近代になり、昭和13年に耳庵さんが買い、そこに茶室を作ろうということで飛騨高山から田舎屋を移築してきた。それがここにある「睡足軒」の建物です。

「睡」とは睡眠の「睡」とお酒に酔うという意味を兼ね、それが「足りる」人生というところからきているようです。

       
        睡足軒の内部

戦後、吉田茂など政財界大御所を呼んで、会談をしたと言われている。お亡くなりになった後平林寺に寄贈され、寮舎「睡足軒」として使われていた。その後、新座市に無償貸与された。

 何年か前、ここで「新座市民大学」の講義を受けたが、非常に気分がよかったですよ。今はお茶の会など日本の伝統的文化活動や青少年の体験学習の場として活用されています。全部木で作られ、落ち着いています。柱の一つ一つをとっても、日本の文化はすごいなと思います。

松永翁と柳瀬山荘の思い出

 「ブルドッグに追われた」
 
 
 田中定一さん 新座市文化財保護審議委員会委員長、元市議会議長)

―田中さんが子どもの頃に松永さんに会われた。

田中 私は大正13年生まれだけれど、10歳位の時にもうあの柳瀬の別荘はできていた。私どもは中へ入るような身分じゃないし、でかい厚い門が閉まっていたんだ。小学校、4、5年生位の時に同級生と一緒に、垣根の中を潜り抜けて入ろうとした。そしたらブルドッグのでっかいのがね、7、8匹放し飼いにしてあったのよ。 松永さんの別荘というのは、伊豆方面の南向けの斜面と同じように、頂上に家を建てて斜面の方は南方を段々畑にして、みかんの木を植えた。

―今、雑木林になってますよね。

田中 それは、もうおっぽっちゃった(放置した)から。みかんの木を植えて、その木の下に馬一頭飼ってあった。馬の世話する人がいて、馬を乗りこなせる人はね、貸してくださいって言えば(貸してくれた)。(学校の)先生が借りに行ってね、背がちっちゃいくせにでっかい馬で、まだ車が少なかったから川越街道をポカポカと朝霞の方まで走って行ってね。

―別荘だったんですけどしょっちゅう来てたんですかね。

田中 まあ何といっても高台だしね。前は田んぼで、それこそ平林寺の山まで見通しが利くんだからさ。昔は、自分の家なんか、ちょっと風があれば前の方に家がなかったから、富士山が家の廊下から見えたんだから。だから松永さんからすれば若い時は、一番愛した別荘じゃなかったのかね。

―山荘から始まった。

田中 最初はあの別宅だと思うよ。それで吉田(茂)総理なんかが来るのが25年頃だと思ったよ。

―それから睡足軒を。

田中 松永さんは年取ってからお茶に打ち込んだ。睡足軒は飛騨高山の方から古い民家をすごい金額で買ってね、そこでお茶をやっていたわけだよ。中に入ってみると、ごつい様な材料でもって組み立ててあるけどね。

―平林寺が菩提寺。

田中 平林寺の中門の両脇には仁王様が立っているでしょ、私ら子供の時は無かった。それを松永さんがどこかの廃寺から持って来て納めた。

それ位の程度にしか私どもはねえ、松永さんに対しては認識がないのですが。

―睡足軒は、今は新座市が管理している。

田中 睡足軒は(松永氏の死後平林寺に寄付され)、お寺さんだった。昔は大きなお寺さんは塔頭(たっちゅう、子院)といってね、そのまわりにみんな建ったのよ。

―平林寺の塔頭?

田中 そう、それで、坊さんがいたんだよ。一時坊さんが減った時、良かったら市の方で使ってくれますかっていうことで。新座市が借りて茶道の練習場所だとかね。

サンケン電気の生みの親

  パワー半導体の大手メーカーで売上高が2千億円を超す地元の有力企業であるサンケン電気(本社新座市)は、実は松永安左エ門が生みの親である。

 松永は、昭和12年、東邦電力(今の中部電力などの前身)の一部門として、財団法人東邦産業研究所を設立した。同研究所の東京試験所は志木駅近くの今の慶応高校の敷地に置かれ、そこで電気担当研究員を務めたのが、小谷治だった。

 小谷は半導体材料の基礎研究に打ち込み、セレン整流器として国内トップ品質の製造法を開発、研究所内にあった鶏小屋を改造して工場とした。終戦を迎え、同研究所が解散を余儀なくされ、小谷は半導体の企業化を決断、昭和21年東邦産研電気株式会社を発足させる。今日のサンケン電気である。

 ちなみに、小谷の墓も松永と同じく平林寺にある。

       (棚橋利行さん、田中定一さんはその後お亡くなりになりました)