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川越物語/語り継ぎたい歴史のまち
人気化する「川越」のメカニズムを深掘りする
圓山壽和さん


 川越のまちが人気化している根源は何か。市内在住の圓山壽和さんは、有志の研究会「川越シティカレッジ」において、「川越物語
/語り継ぎたい歴史のまち 人気化する『川越』のメカニズムを深掘りする」と題して講演した。圓山さんは、人気化し人を引き寄せる川越の地層には、川越藩時代の有力藩主や、戦後街並みの保存活用に尽力した人たちなど、歴史の断層が積み重なっていると指摘する。
 

        

       圓山壽和(まるやまとしかず)

 1946年埼玉県小川町生れ。県立川越高校、東京大学文学部国史学科卒業、1972年川越市役所就職。退職後、東洋大学工学部所管の産学連携中核人材育成事業のコンシェルジュ(嘱託)2012年、中小企業コンサルタント及び地域サロンコーディネーターとして自立。

          
               にぎわう川越(時の鐘付近)

川越がいろいろな機会に取り上げられることが多くなり、訪れる観光客も増加している。近年の川越の人気化の背景には何があるのか、深掘りしてみたい。

その際、以下の点に特に留意した。第1に、物語としての川越を演出してきたものは何か、誰か。 第2に、人気化し、人が集まるのは、何があるからか、何を求めてか。第3に、歴史の断層を眺める。歴史の断面を見ると積み重なってきているものがあるのだろう。

今、川越の地で展開されている全ての諸々の活動は、川越の地で歴史的に展開されてきた諸々の活動の結果をその都度引き受け、対応し、新たに付加し、融合し作り上げられてきた地域風土、土壌蓄積の上で展開されていることを理解する。それは多様な人間群像が織りなしてきたものである。それは、地域支配を目論む武士層の行動/動向であり、一方、治安の安定に連動し農業に励んで来た農民層の生産活動と村々の生活であり、更に市/まちの物流の活性化/広域化を担って来た町人/商人の貨幣経済下での営利行為の推進が機能的に融合したものであると言える。

 

 

今の川越の始まりを辿る/まちの形を与えられて

 歴史をどこまでたどるか。今の川越の始まりを、まちの形を与えられて動き出したという点で見ると、やはり徳川家康の関東転封(天正18年=1590)だ。家康が関東に来た時に、秘蔵っ子の酒井重忠が川越に入封する。家康、秀忠、家光も領内視察を兼ね鷹狩りで川越に来ている。川越城は将軍家、江戸と直結する存在/番城となった。

 城主・酒井忠利は寛永2年(1625)に3万7500石を領するように大きくなる。この時拝領した村々が、その後歴代藩主の城付地として継承されていく。

 それとともに、喜多院住職の天海が家康をはじめ徳川3代に信任される。喜多院の伽藍を整備、仙波東照宮を勧請、喜多院領500石、東照宮領200石が与えられる。

 この段階で川越はいろいろな意味で江戸をサポートする領地としての位置づけになる。 

  
       
          川越城址(本丸御殿)

今も生きている松平信綱の町割り/啓蒙領主の登場

 徳川幕府にとって関東を治めるのに川越の役割が明確に位置付けられ、川越にはそれなりの城主が来ている。

 松平信綱は島原の乱を平定、忍城から川越藩主に。寛永15年(1638)の大火で焼失した城と町を復興整備。川越城を拡張、城下の町割りを形成した。それ以前は城の中に町を抱え込んでいた。

 町割りでは武家地と町分を分け、町の周辺には村が町場化した郷分があった。町人町の5カ町、職人町の5カ町、四門前町で構成された十カ町四門前という組織が生まれた。

 信綱はまた、川越街道の整備、新河岸川の舟運、新田開発など産業基盤を整備し領民を導いた。特に新河岸川舟運の役割は大きかった。信綱の言行を書き留めた「榎本弥左衛門覚書」が存在する。信綱は老中で幕府の要にいるのだが、結構川越に来ている。信綱は啓蒙領主だった。 

川越藩の充実期、転換期を彩る人物 文治の人・柳沢吉保と経世家・海保聖陵

 次の時代になると5代将軍・徳川綱吉の覚えめでたかった柳沢吉保が川越城主となる(元禄7年169472000石)。10年ちょっといて宝永元年(1704)には112000石に加増。加増により城付地が増大、産業振興に力を入れ、川越は活況を呈する。鎮守氷川社、三芳野天神、仙波東照宮の修復普請などいろいろ整備する。吉保に抱えられていた荻生徂徠は「三芳野名勝図絵」によると、城下宮の下に住んでいた。

 商人社会(武士も商人=あきんど)を是とする海保青陵(宝暦5年1755~文化141817)は、川越に延べ1年程度逗留し、門人も多く川越藩の経済活性化策を提言した。商品経済では付加価値を生み出す流通促進が藩の施策で大切と説いた。「川越平」(夏袴)のブランド化、さし米を応用したシロモノ無尽など具体化。今で言う経営コンサルタント。 

明治、大正、昭和戦前期、戦後期の川越

 川越は明治22年町政施行、大正11年に市政を敷いた時には11平方キロの面積だった。その後昭和14年に田面沢村を編入、昭和30年9月に近隣9カ村と合併、109平方キロに。全体は昔の城付地に当たる。都市の構造の骨格として 城付地=殿様への一体意識がある。 

平地で物流の便がよいこれだけの面積を、昭和30年に確立しえたことが今の川越の基盤のベースとなった。当時の伊藤泰吉市長は合併を成し遂げた功績がある。

概観すると戦後の川越まで、川越藩時代からの基層は生きている  

戦後の川越 概観:賑わいの場の変遷 周辺部(郷分)/新規投資区域の移行と活性化

 川越は戦災に遭わず、昭和2030年代(1940年代半ば~1960年代半ば)は戦前同様、一番街(市役所も近い)がにぎわいのポイントだった

  その後、店舗改装拡張、駐車場確保の必要から昭和40年~60年代(1960年代半ば~1990)、(株)丸広百貨店が移転、スーパーチェーン店が開店、賑わいが連雀町から新富町通り、川越駅・本川越駅方面へ移動する

         
            丸広百貨店 (現在)

 川越東口再開発事業の完成及び本川越駅整備開発事業(プリンスホテルを含む)の終了に伴い、平成初頭(1990~)、クレアモール(川越駅東口から丸広百貨店を経て本川越駅に至る道筋)がかなりにぎやかになってきた。首都圏ではあの道幅で人通りは横浜の馬車道を超えているらしい。

       
           クレアモール入口

 さらに、平成10年頃から一番街/蔵造りの景観が集客力を増し、改装と新規出店も相次ぎ、人の流れがまちの奥/一番街へつながり賑わいが波及してきた。

        
              一番街

 

戦後のまちづくり:川越駅周辺の都市改造

川越は駅周辺のまちづくりが首都圏では比較的うまくいった。早めにやらなかったことが幸いした面がある。

 昭和37年度、伊藤泰吉市長の時、首都圏整備法に乗り、国から川越駅周辺整備の調査委託を受け、42年度(加藤瀧二市長)に密集市街地街路整備調査を行う。西口は区画整理、東口は市街地再開発と手法を決めて取り組み始めたのが、昭和50年代から。

 西口第一工区(駅前)は52年度に完成。第二工区は平成17年度に完成。市の玄関口となり、広域幹線街路への導線が完成。

 東口第二工区は昭和56年度に完成、第一工区は遅れたが平成2年度に完成。中心市街地や旧市街地への導線が整備された。

いずれにせよ、何とかやりぬいてきたことで今の賑わいの受け皿ができてきている。 

戦後のまちづくり:一番街の街並みの保存活用

 昭和40年代半ば(1970年代初頭)、一番街の蔵造りの一画の旧商家万文の保存運動が起き、昭和46年、歴史的建造物の保存活用の視点から市が買収した。当建物は現在、蔵造り資料館(工事中)。これを契機に街並み整備の気運が高まり、まちの活性化の連鎖が起きた。

保存しようという動きが40年代から出てきたが、そのきっかけとなる、啓蒙家がいた。昭和40年以前から東京大学都市工学科(高山研究室、昭和37年に学科創設)が演習で川越市に入り、蔵造りに関し問題提起(故内田雄造東洋大学教授の証言)していた。現在は、数多くの大学の研究室が地元で保存・修復・活用を推進している「蔵の会」等とのネットワークを築いている。

川越の歴史的建造物に着眼した専門家の存在と、それに共鳴し歴史的景観の保存修復を活かした街づくりに立ちあがって行った市民層の存在、そして何よりも万文を買った加藤瀧二市長の太っ腹とそれをつないできた歴代の市長がえらかった。 

今の川越/活性化の諸要因 なぜこんなに活性化しているのか

 A.立地特性を活かした高校、大学の新増設

江戸時代末期の川越には、藩校があり寺子屋があった。川越は江戸/東京との近接性を活かし時代に即し教育環境を整えてきた。明治32年(1899)に旧制川越中学(現県立川越高校)、明治39年(1906)に川越町立川越女子高等学校(現県立川越女子高校)が開校。

平成29年現在、14の高校(在校生14566人)、4大学(在校生14050人、専任教員464人)が存在し、川越の人集めの基礎的要因になっている。川越は高校と大学があることでもっている。高校生は川越で結構楽しんでおり、若い人が川越に来ている。

 

今の川越/活性化の諸要因

B.交流、物流を支える広域的交通網 

昭和60年に入り都心部への鉄道網が新設され、平成10年代から臨海部への直通運転が可となる。①JR川越線電化、埼京線開業(昭和60年、現在東京臨海高速鉄道と連接)、②地下鉄有楽町線開業(同62年)、③地下鉄副都心線開業(平成20年、現在東急東横線と連接)。以上により、広域交遊圏域での拠点性が増した。

昭和46年、東京川越道路開通(昭和60年、関越高速道路として全線開通)。平成8年、関越道鶴ヶ島JCTが開通。平成13年中央自動車道、平成26年東名高速道路、平成27年東北自動車道と各々連絡。首都圏全域の広域幹線道路網の整備で郊外部/川越圏域での工業団地、特に物流倉庫群(集荷/仕分け/半加工)の集積がなされた。

成田空港、羽田空港とのアクセスの改善(川越駅からの高速バスの配置、国際貨物流通)により、両国際空港と川越圏域との近接化が進んだ。

今の川越/活性化の諸要因  /祭り、食、着物の各文化の保持開発

 川越祭りはポテンシャルを持っている。山車保有町内が結集軸としての潜在力がある。

 川越生まれの人を呼び戻し旧交を温めさせ、川越に入ってきた人をまちになじませる場となっている。山車を保有し、運行することで町内は歴史的存在として将来へ引き渡されていく。世界文化遺産になったことの波及効果もある。

 食文化/食材の掘り起こし、付加価値の開発による多様な商品の展開。戦前まで川越の料亭街は盛んだった。今は新しい店が工夫をしてきている。

 着物文化の普及:蔵造りの街を着物で歩くことで味わえる異文化、異次元体験。スマホ世代の若い層と海外からの旅行者をつかまえた感がする。

    
      街に着物姿が目立つ

 これらソフト開発ともいうべき動きが、時代の成熟とあいまって多種多様な形で生まれてきている。見る観光から味わい体験する観光へ脱皮してきている。来るもの、持ち主拒まずの市場機能が生きている。 

 おわりに/雑感、川越への思い入れを含めて

確かに人気化している川越。一例、中国の観光サイトに見られる川越=着物を着て歩ける街。

江戸時代から川越のまちで保持されてきたものは何か。江戸とのいい距離、人と物資の交遊交流を可能にした交通網と交通手段。今、都心への鉄道網、道路網は複数存在し、ますます利便性が高くなっている。

 いつも賑わいを持ち得てきたまちの源泉は何か。それは開かれたネットワークだ。人脈・市場を遊び心で培い、才人・新規商人を受け入れてきた人たちがいた。外の才ある人には試行・思考の場としての雰囲気が満ちていた。

 市(出会い)、祭り(晴れ)の場として、人を集め人が集まってきた。「朋有り遠方より来る亦楽しからずや」の風土を守り誇れるまちなのではないか。

            (令和元年9月)