広告

高麗宮司による 高麗神社入門

高麗神社にはどのような由緒来歴があり、どのようなエピソードが隠されているのか。9月の秋晴れの日、高麗郡初代郡司、高麗の王(こきし)若光から60代にあたる高麗文康宮司に、境内をご案内いただいた。

(取材2014年)

 

<高麗神社の来歴>

「高麗」とは高句麗のこと

高麗神社においでいただきましたが、私も高麗という姓を称しています。宮司は多くいますが、神社と同じ名を名乗っている、根性の座った神主は珍しいでしょう。仕方がありません。もう60代前から続いている名でございまして、いまさら変えようがありません。

高麗を「こま」と読みますが、「高麗青磁」とか「高麗人参」とか、一般には「こうらい」と読む方が多い。ここでは「こま」と読むのには、理由、秘密があるわけです。

たぶん1300年以上前から、「こま」という読み方をしていたはずです。720年に大和朝廷が作った、官選の史書である「日本書紀」には、「高麗」という字がたくさん出てきますが、それを「こま」と読ませていたと推測されます。「高麗」は朝鮮半島にあった国の名前です。歴史の教科書では「高句麗」の名で出てくる国です。その国のこと日本では「高麗」と書き、「こま」と称していたということです。

拝殿前

716年に高麗郡建郡

それでは、なぜこの場所に「高麗」という国の名を冠した神社があるのでしょうか。そしてなぜ「高麗」という名の宮司がいるのでしょうか。そもそもこの神社に祀られている方は、高句麗からの渡来人であるということです。名を「高麗の王(こきし)若光」といいます。西暦716年に、このあたりに高麗の郡(こうり)という郡が置かれました。そこに来た人は、高麗から来た人たち(高麗人)で、人数は1799人であったという記述が「続日本紀」にあります。東国7つの国、関東地方にちらばって住んでいた高麗人(こまびと)たちを716年にこの地に住まわせたのが、高麗郡の始まりであり、「高麗」の名はそこを始原とするわけです。

高麗人たちが日本にやってきたのは、国がなくなってしまったからです。7世紀半ばから東アジアは動乱期に入っています。唐という国が興き、朝鮮半島には高句麗、百済、新羅という3つの国がありました。百済は日本と密接な関係にありましたが、661年に滅んでしまいます。日本は百済復興のため救援軍を送りますが、唐と戦い敗れます。そしてその5年後高句麗も滅びることになります。百済が滅んだ時にも高句麗が滅んだ時にも多くの人がやってきた。7世紀後半から8世紀にかけて、日本には百済人や高麗人がたくさんいたわけです。そして、高麗人たちは、最終的にこの高麗の地にやってきたことになります。

高麗郡のリーダーであった方が、高麗の王若光と言われる方で、亡くなった時に御霊をしのんで祀ったのが高麗神社の始まりです。

<芳名版に著名人の名>

高麗神社はそんな由緒来歴を持っていますので、それをとても珍しい、あるいは面白いと興味を抱かれた人たちが明治期以降たくさんお見えになるようになりました。それが、この芳名板に書かれているお名前です。

芳名板

坂口安吾

たとえば昭和26年10月18日に、坂口安吾さんと壇一雄さんが連れ立ってお見えになりました。10月19日は今でも高麗神社の例祭が開かれますが、その前日は獅子舞の予行演習をします。その様を坂口安吾さんはご覧になり、吹かれる篠笛の哀調を帯びた音を聴き、国が滅亡してここにやってきた亡命者たちの歴史に思いを馳せて、「高麗神社の祭りの笛」という随筆をお書きになられました。

太宰治

それからその少し前に昭和18年頃、太宰治さんとそのお仲間がお見えになっています。表向きの目的は作品の題材を見つけるための取材旅行でしたが、当時戦争が始まって世の中にお酒がない時代でした。ところがお寺と神社には奉納されるお酒がありました。それをあてにしてきたと言うと、ファンの方に申し訳けありませんが、飲みにきたわけです。事前にお手紙が来て、「一品だけ料理を所望する。できればお酒をつけてください。その代わりちゃんと弁当を持っていくから」と。しかし、偉い先生が来られたということで、私の祖父の時代ですが、弁当は食べないで済まされるくらいもてなしをした。その後、紀行を書かれた人がいて、太宰さんは高麗駅で自分で持ってきた弁当を食べていたそうです。

<お手水>

最後にひしゃくを立てて柄を洗う

お手水の作法ですが、ひしゃくで1回すくいましら最後まで足せませんので、なるべきたくさん水を入れてください。最初に左手を、次に右手を洗い、あらためて左の掌に水をためてそれで口を漱いでいただきます。そして最後にもう一度右の手を洗い、残った水があればひしゃくを立てていただくと水がこぼれ、柄を洗うことができます。後の方のためにそうしていただければと思います。

お手水

<社殿の配置>

昭和9、10年に向きが変わる

高麗神社は、歴史は1300年近くありますが、創建の年代は奈良時代頃としか言えません。その間、境内の姿は昭和9年から10年にかけて行った整備事業で整った部分があります。劇的に変わったのは、社殿の向きです。昭和9年までは、社殿は東に向いていました。位置も現在地の階段の下あたりでした。

今、社殿の改築工事をしており、来年1年間は拝殿は使えない状況になります。1月になりましたら、神様に仮の場所にご移動いただきます。来年の10月19日には新しい社殿でお祭りをできればと考えています。

<記念植樹>

李王垠殿下 李王妃方子女王殿下

社殿前の参道沿いは、おいでになられた方が記念の植樹をして、森を整えてきました。ここに一対の杉の木があります。昭和17年においでいただいたご夫婦の植樹です。向かって右が李王垠殿下 左が李王妃方子女王殿下のお手植です。李王家は日韓併合の時代の朝鮮王家で、李王垠殿下は朝鮮王朝の最後の皇太子という位置づけの方。方子様は、梨本の宮家という日本の皇族の出でした。ある日方子様が新聞を開くとそこに自分の婚儀が決まっていた。それでもお二人は非常に仲睦まじいご夫婦で、おいでいただいたのはここが朝鮮半島とゆかりの深い場所であったことから親しみを感じていただいたのだと思います。

李王妃お手植えの杉

昭和20年に戦争が終わり、李王家はなくなり、しばらくして韓国に戻り、李王垠殿下が亡くなり、その後方子様は作陶や作画をされ、それを売ったお金で体の不自由な子供たちのための施設を運営していたそうです。その施設は今でも存在します。方子様は日本においでになると、時々高麗神社にお見えになった。ご自身の運命と、高麗神社の歴史が重なり合っていると感じられていたのではないでしょうか。

<出世明神>

多くの政治家が総理大臣に

高麗神社は出世明神と言われています。神主は出世していませんが、お参りをすると出世するとのことですので、期待していただければと思います。

由来は、大正末期から昭和の初期にかけて、政治家がたくさんお参りに来られました。日本が国際社会に乗り出した時代で、特に朝鮮半島の情勢に関心をいだいた政治家が多くいても不思議ではありません。著名な政治家も多く、そうした方たちがおいでになった後に、総理大臣になった方が何人か出て、記者が「出世明神高麗神社」と書いたのが出世開運とされる由緒の始まりです。

<社号額>

「高句麗神社」の謎

神社の名を記した額縁状の板を社号額と言います。神門に社号額があり、本来ですと、ここに「高麗神社」とあるべきですが、「高句麗神社」になっています。高麗神社は高句麗との関わりは深いですが、「高句麗神社」と名乗ったことは一度もありません。

明治33年、一人の方が高麗神社に来られました。当時は鉄道もなく、東京から一日がかりでおいでになったのでしょう。趙重應という方で、朝鮮王朝の両班(やんばん)という身分。両班は勉強がお仕事で、書もよくされる方が多い。来られた際、高麗家でもいくつか書をお願いしましたが、一つが社号額に使われた。高麗神社と書いた後に、「高」と「麗」の間に小さく「句」の字を入れて、これが本当だとおっしゃった。高句麗と百済と新羅が争った後、新羅が半島を統一しますが、新羅も10世紀には滅び、その後覇権を握るのが高麗。つまり、同じ「高麗」と書く王朝が、2つ生まれてしまった。趙さんは、混同を避け、高麗神社は高句麗と関わりがあるのだと言いたいがために、「句」の字を入れたと、私は解釈をしています。

<社殿>

御神座を見ることはできない

神社で神様がいらっしゃる場所を社殿と言います。神社には、神明造、流れ造、八幡造などいろいろな作りがありますが、高麗神社は権現造と言います。皆さんがお参りで社殿の中に通されて座る場所を拝殿、神主が祝詞を読む場所が幣殿、さらにその奥、扉の前にお供えものがしてあったりする場所が本殿。神前とも言います。扉を開きますと御神座がある。

この権現造の社殿は昭和の初期に作られたものですが、本殿の奥の扉がある場所は社殿とは違う構造で別の社殿が大きな社殿の中に入っている形になっています。中の社殿(流れ造)は、今から約500年ほど前に作られたもので、そこに御神座があります。

昨年出雲大社が平成の大遷宮と銘打って遷宮をし、その際御神座の公開をしましたが、極めて珍しいことです。一般的に、神主も御神座を見ることは厳に謹んできました。神様はおそれ多く、たとえ一社の宮司でもおいそれと御神座、御神像、御神体をのぞくことはできません。今でも、そこに御神体があることはわかっているが、何があるのかわからないという神社は結構あります。高麗神社も、ご神体がどんなものなのか職員にもわかりません。

<高麗家住宅>

貧乏だったから残された文化財

垣根のこちら側は、高麗家の私有地になります。神社やお寺を守る人たち、宮守とか地守と言います。神主やお坊さんである場合もそうでない場合もありますが、基本的に神社やお寺の近くに住みます。高麗家住宅は、慶長年間、今から400年くらい前に作られたと言われています。

建物の手前にあるしだれ桜も400年くらいの樹齢があります。3月下旬から4月上旬が見ごろです。ピークは3日間くらい。個人的には八分咲きが一番きれいだと思います。

高麗家住宅

建物ですが、屋根は茅葺になっています。昭和46年に民家としては早い段階で、国の文化財に指定されました。文化財は、市、県、国と順番に指定されていくことが多いのですが、高麗家住宅はいきなり国指定になりました。茅葺や藁葺き屋根が消えていく中で、文化財指定が民家に移ってきたのが昭和40年代の半ばでした。当時人が住まなくなり、傾きかけていた高麗家住宅が残ったのは国の施策のおかげであると言えます。

ただ、茅葺屋根の修復はお金もかかりますし、大変です。今年10月20日以降、茅葺が取りはらわれ、来年3月を目指して、葺き替えをします。

この建物に、高麗家では昭和29年頃まで住んでいました。居宅として400年近く住んでいたことになります。それは高麗家が貧乏だったからです。裕福な家であれば建て替えができるわけです。建て替えができず、住まなくなっても取り壊しもできなかった。私の父は、成人になってからもこの家で暮らしていましたが、「貧乏が文化財保護に役に立つ」と自慢げに言っていました。

大黒柱がない

奥が奥座敷、賓客をおもてなしする場所です。ここだけ唯一、天井、床の間、床柱がついています。お客がお見えになると、ここ(土間側でなく外に面した4畳の座敷側)から上がる。ここが正式の出入り口です。

家の柱が真っ黒なのは、火を炊く場所は、かまどや囲炉裏で、燃料は材木や炭ですから煤けてきます。それが黒い原因です。

(土間から)一番手前の部屋のことを表座敷と呼んでいました。右側に勝手(台所)、勝手の奥にもう1つ、「部屋」と呼んでいた部屋。表座敷は家族の生活空間、奥座敷は客間。「部屋」は普段は納戸として使っていたこともありますし、年寄りだけが寝たりもしていましたが、もう一つ重要なことに使われていました。出産をする部屋です。私は産婦人科で生まれていますが。

この家の構造上の大きな特徴は、大黒柱がない。大黒柱は江戸の元禄期より後に普及してくるということで、それ以前であることの証明になるのだそうです。

上に梯子をかけて上ることができます。大人が数人作業でき、養蚕をしていました。川越から西のこの地域は養蚕地帯だったのです。上だけで間に合わなくなると、座敷、生活する場所を削って蚕を育てていました。昔の方は、蚕のことを「お蚕さん」、「お子様」と呼んでとても大切にしていました。

<高麗郡建郡1300年>

あと2年たちますと(2016年)、高麗郡建郡1300年ということで、今我々は1300年に向かって一生懸命地域づくりの取り組みをしております。ぜひお楽しみにお待ちいただきたいと思います。また、高麗の里は春夏秋冬、いつお越しになってもよい場所ですので、ぜひおいでいただきたい。

(取材2014年9月)

関連記事

コメント

タイトルとURLをコピーしました