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中世、鎌倉に通じた鎌倉街道の往時の面影
毛呂山町に残る

鎌倉時代に幕府の置かれた鎌倉に向かう道として建設された鎌倉街道の往時の姿をしのばせる風景が、毛呂山町に残されている。毛呂山町歴史民俗資料館の佐藤春生さんにご案内いただいた。

 軍事・経済・流通の道

―鎌倉街道とは。

佐藤 中世、鎌倉時代に幕府によって整備された道路で、当時においては軍事・経済・流通の道でした。今の高速道路のようなものですね。

―各地から鎌倉に通じる道ですね。

佐藤 そうです。

―そのうちの一つが毛呂山を通っている。

佐藤 関東においては、上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、 下道(しもつみち) という幹道と、無数の枝道が確認されていますが、このうち上道が毛呂山を通っている。

―上道のルートは。

佐藤 鎌倉から町田、国分寺、府中、東村山、所沢、狭山、日高、そして毛呂山を通り、鳩山、嵐山、小川、寄居、深谷、児玉、それから川を渡り群馬に抜けます。

―当時の形が残っているのは。

佐藤 今「鎌倉街道」と名づけられた道路は各地にありますが、当時の面影、たとえば特徴的な掘割の景観を残しているところは非常に少ないですね。特段によく保存されているとされているのが、この毛呂山町です。

―毛呂山でどくくらいの距離が残っているのか。

佐藤 町内で3kmくらい縦断していますが、その中で半分くらいが未舗装です。

―他の場所にも道は形を変えて残っている。

佐藤 拡幅され、鎌倉街道という名で幹線道路に変身したところもありますし、

たとえば府中では、今は府中街道というりっぱな道に重なっているところもあります。武蔵国分寺には切り通しが残っている場所があります

4~5mの幅、掘割も

〈資料館から200mほどの場所に古道が残っている〉

  

―ここが古道の掘割ですね。

佐藤 道自体が周りの地面より低くなっているんです。2mくらいですね。古道はこの特徴をもっています。

―昔もほぼこのままだったんでしょうか。

佐藤 下を掘りますと、もっと道幅が広くて4~5mあったことがわかってきました。かなりりっぱな道ですね。

また、ここは一部発掘をしているんですが、側溝が見つかりました。鎌倉街道は側溝がついているんです。30cmくらい掘っており、水はけのためだと思います。

―当時は何もない、林と原野の中を通したのでしょうか。

佐藤 できるだけまっすぐに、最短距離を通しているようですね。地形も少し下がったところを通しています。

―この道路は今でも道路として使われている。

佐藤 ほぼ、そうです。散歩されている方をよく見かけます。町内では200mほど遺跡として林の中に残されている部分もあります。

―町外は同じように続いている。

佐藤 続くんですが、掘割の景観はほとんどなくなっています。小川町には林の中に掘割が残っているようですが。

40基の古墳群

〈鎌倉古道沿いの雑木林の中に古墳=川角古墳群が〉

 

―これはいつごろのものですか。

佐藤 時期的には7世紀ぐらいだと思います。地域の小豪族のお墓ではないかと。円墳と言われる丸い古墳です。この周辺だけで40基ほどあります。

―発掘は。

佐藤 ほとんど発掘はしていません。上部に石が葺いてあります。

地権者の方が手入れをしてくださるので、いつ来ても草におおわれず、マウンドがわかります

―このようなものがそのまま残っているのがすごい。

佐藤 開発が及ばなかったのが一番の理由でしょうか。さきたま古墳群のように大きくはないが、さりげないところに古墳があるのも、あれっという感じでいいのではないですか。

苦林=にがばやし=宿の跡

〈古道が先の堂山下遺跡にさしかかる手前に道がやや屈折した箇所が〉

 

佐藤 ここは道がクランクしているんです。古い道は多くが、鍵の手にクランクすることがあります。外部から人が入りづらいように、道の先が見えづらいように作っている。この先の現在グラウンドと養護学校のある場所は堂山下遺跡があり、鎌倉、室町時代の宿場、苦林=にがばやし=宿の跡と言われていまして、実際に発掘調査でたくさんの井戸、建物跡、お墓などが見つかっています。宿にダイレクトに入れないように道が作ってあるのではないかと考えています。

〈クランクした箇所の傍らには庚申塔が〉

佐藤 これは毛呂山では一番古い庚申塔という種類の石仏です。17世紀の後半、それまでもあった古墳の上に建てたわけです。江戸時代の1750年代ごろのこの地区の絵図にこれが残っていて、この塚が庚申塚と書いてあります。

―いろいろ時代が重なりますね。

佐藤 ここは古墳時代の古墳があり、鎌倉街道があり、鎌倉から室町時代にかけての宿場があり、その後時代が下って江戸時代の資料もある。ですから、各時代を堪能できる珍しい場所と思います。

掘割がくっきりと

〈西大久保市場地区は林の中にくっきりと掘割の跡が〉 

 

佐藤 ここは、250mほど、これだけの高さで掘割が残っているんです。ここは埼玉県が試掘をしています。

―樹木は。

佐藤 後で植林したものです。当時はなかったでしょう。
 ここは、ちょうど大字境になっています。川角大類もそうです。

―ここから鎌倉までどのくらい。

佐藤 距離は80kmほど。馬を使えば1日で行けるかもしれません。

―宿場は。

佐藤 さきほどの堂山下遺跡の苦林宿から、北の方では嵐山に大蔵宿、寄居の塚田宿、児玉、 南では狭山の入間川宿と、点々と。だいたい渡河地点ですね 

〈近くには、苦林野の合戦の碑も〉

―苦林野の合戦とは。

佐藤  1363年、鎌倉府の長官、足利基氏と宇都宮氏の家臣、芳賀禅可という武将との戦いが、この資料館のすぐそばの苦林野であり、足利基氏が勝利したが、戦死者が多く出た。狭山に堀兼の井がありますが、そこの水が赤く染まったと太平記に記されています。その碑が、苦林古墳という前方後円墳の上にあり、江戸時代の人が供養のために建てた千手観音像が立っている。これも少し足を伸ばせば、散策できます。 

―鎌倉街道を散策するには。

佐藤 車の方は資料館に駐車していただけば近いです。電車の場合は川角駅から鎌倉街道をたどればよいと思います。

  ―何とか末永く保存できるといいですね。

佐藤 平地林をそのまま残し、自然とともに史跡探索を楽しんでいただくのが理想的ですが。今では毛呂山でも、こうした景観はなかなか少なくなりました。今ありがたいのは地権者の方に保存に協力していただいていることですね。5年前はこの辺は草が茂り、どこが道かわからないという方が。今、年2回、地権者とボランティアの方で草刈を行っています。 

―資料館主催のツアーも。

佐藤 毎年、少しずつコースと味付けを変えてやっています。「古道を楽しむ会」というグループもあります。

(毛呂山町歴史民俗資料館 毛呂山町大類535 049・295・8282)

本記事は、「東上沿線物語」第26号(20091112月)に掲載されたものです。

 
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