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障害者就業を考える

障害者一人ひとりを見つめる、真のノーマライゼーション実現を目指す 

社会福祉法人育心会 丸木憲雄理事長

  
 埼玉県毛呂山町にある育心会。毛呂病院を母体として創設され、この毛呂病院及び埼玉医科大学と兄弟関係にある社会福祉法人だ。9つの施設を運営するが、その中核は町内市場地区に集約された知的障害者の支援施設だ。この地区だけでも入所者が500名を超す大規模法人だが、障害者の生活の支援、建物の構造など、従来とは違う様々な試みがなされている。丸木憲雄理事長は、障害者をひとくくりにするのではなく、個別に向き合うことと、まず普通の人と同じ環境を整えた上で障害児・者に対応すること、の重要性を説く


                                 育心会 川角地区 全景 


[大規模社会福祉法人 育心会]
 
 社会福祉法人は、一般的に1法人が1施設を運営する場合が多いが、育心会は9つの施設と付随する事業から成っている。

 そのうち、6つは知的障害者の方の支援施設で、川角地区(毛呂山町市場)に集約され、立地している。①障害児入所及び生活介護・入所支援(育心寮)、②生活介護・入所支援(光風寮)、③同(第2光風寮)、④同(第3光風寮)、⑤同(松山荘)、⑥就労継続支援B型・入所支援(報恩施設)だ。

 それ以外は、生活保護法にもとづいた救護施設、老人福祉法にもとづく特別養護老人ホーム及びデイサービスセンター(悠久園)、健常児向けの保育所(養光保育園)、付随事業として悠久園居宅介護支援センター、生活支援センター(向陽)、救護施設育心寮診療部等がある。

 6つの障害者支援施設からなる川角地区は、煉瓦作りの瀟洒な建物が並ぶ、ヨーロッパの村のような趣だ。入所者は540名ほどで、知的障害をもたれた方が1つの地区にこれだけ多数生活しているのは規模的に珍しいとのこと。

 光風寮がその中で一番古く、昭和57年に開設。次が、第2光風寮で昭和63年だ。松山荘は、児童福祉法による障害児施設として東松山市に開設したが、その後障害者施設に転換、平成10年現所在地に移転した。第3光風寮も、平成19年に埼玉医科大学構内から現在地に移転した。松山荘以降、従来の施設とは違う発想に基づいて施設が建設され、建物面積が広くなった。

 松山荘と第3光風寮は、共有空間もゆったりとし部屋は2人部屋だ。災害対応で、どの部屋からもベランダ伝いに外に避難ができるようになっている。

 食堂や浴室は通常なら施設内にあるが、別棟にしている。単調になりがちな施設での生活に少しでもメリハリをつけることが目的だ。食事・入浴・日中活動の時は、靴をはいて出かけ、また戻ってくる。食堂のスペースも広い。塀や、居室のカギは原則として掛けないし、利用者の自由度を高めているのも特徴。

 第3光風寮の別館は1DKが18室、2DKが2室あり、夜間でも状況に応じては外出が可能である。食事・入浴・日中活動等は施設が用意。地域のグループホームに近く、アパートで一人暮らしはできないが、少しの支援があれば生活ができるという方が利用している。

 報恩施設は、日中活動として就労継続支援B型の事業所である。一般就労が難しい方に就労機会を提供する事業だ。夜間は、入所支援を行うが、ここも就労棟と生活棟は分けられている。

 仕事は、クリーニング班、農作業班、食品加工班、紙工班、外部実習班に分かれる。クリーニングは、法人内施設利用者の衣類やおしぼりの洗濯、農作業は畑で作物を栽培する。食品加工は、採れた野菜を加工したり、納豆や豆腐を製造。製品は法人内施設の食事用に用いる。紙工は、デパートの紙袋や商品カタログを入れる箱を組み立てたり、梱包する作業で外部企業から請け負っている。
 


 報恩施設クリーニング設備

 仕事時間は朝の9時から11時半、午後は1時から4時まで。午前午後各15分休憩が入る。給料は工賃という名目で、多い方は2万円弱、低い方で6000円。作業能力の高い人は多く支給するようにしており、他の同事業施設に比べると高い平均水準である。

 外部実習は、地元の企業で受け入れて頂ける場合に、労働契約を結んで出向く。この場合は、施設利用は夜間だけになる。その他には、法人内の別の施設、主に老人ホームの掃除に行くなどの実習もある。

 育心寮は、元々児童福祉法にもとづく障害児の施設だったが、今学齢期の障害児が減り、施設から特別支援学校(養護学校)に通うのは4名ほどに。一方で、成人になってからの成人用施設への入所移動が難しく、そのまま入所延長となるケースが増加し、成人利用者の方が多い状況。そのため、現在は障害児入所施設を併設する障害者支援施設としている。


[丸木理事長に聞く]
            

  丸木憲雄理事長
 

 私は永年、障害者支援事業に関わってきましたが、今まで何かおかしいのではないかと感じることもあり、自身でもいろいろ試みてきました。

育心会の利用者は知的障害者が主ですが、障害者という捉えかたにもかなり誤解があったのではないでしょうか。

本来は障害ではないのだが、障害として見えてしまい、障害者としてくくられてしまう。本来の障害とはズレがあるのではないか、ということもわかってきました。そうではないのではないかと感じて、修正・改善を加えて来たわけです。

私の考え方、私たちの今までの経験を述べさせていただき、支援のあり方、福祉のあり方が見直されるきっかけになればよいのではないかと思います。

毛呂病院を母体に設立

社会福祉法人育心会は、元々は毛呂病院という医療機関を母体に設立されました。

私の先祖は、加賀(石川)の支藩の御殿医をしており、江戸時代から医者の家系ではあったようです。曽祖父にあたる人が、どういう縁があったのかわかりませんが、毛呂山の地に来て、明治25年に設立したのが毛呂病院です。

毛呂病院は主に精神病院で、祖父の代には、埼玉県の指定精神病院2つのうち1つになっていました。それなりの大きさにはなってきた。

父(丸木清美)は海軍の軍医をしていましたが、戦後埼玉県から精神薄弱児(知的障害児)の入所施設を立ち上げてもらえないかという要請がありました。当時、知的障害者はほとんど自宅にいるか、精神病院に保護されていました

当時の法律は、児童福祉法、生活保護法、身体障害者福祉法が存在していました。そこで、児童福祉法の精神薄弱児入所施設育心寮と、生活保護法の救護施設育心寮をほぼ同時に設立することになりました(昭和2425年)。

それを運営する法人として、財団法人育心会を設立。昭和27年の法整備で社会福祉法人に組織変更、憲法上の法人として確立されました。


 最後の砦で、重度の障害者が集まる

その当時は、今と比べてそんなに障害の重い方がいらっしゃらなかった。昭和20年代当時はかなりの方が社会復帰しています。障害の重い人が増えてきたのは、昭和30年代に入ってから一気にです。知的障害者の方は、見た目には障害が分かりにくい場合があります。特に身体障害者の方を見てきた人には、そんなに重く見えないと思いますが、育心会の利用者は他の施設利用者と比べても、相当に重い方が多いです。

これは、障害者を行政が措置をする時代に、てんかんの発作があるとか医療的な処置が必要で重い障害を持たれている人の場合には、医療的なバックがしっかりしていないと受け入れが難しいということがありました。育心会は、毛呂病院、埼玉医科大学との協力がしっかりしており、育心会施設内にも診療所も設けてあります。そのため埼玉県内の施設で受け入れることの難しいようなケースになると、「毛呂対応」とか言われ、最後の砦になっていました。職員は重い人に慣れていますので、あまり感じていませんが、平均的に見れば、多くの重い障害者がここに集まっていることになります。

結果的には、児童入所施設、救護施設とも昭和40年代まで利用者が大幅に増え、児童の場合一番多かった時で260名以上、救護は222名収容し、当時としては国内でも有数の規模になりました。


児童施設を成人向け障害者支援施設に転換

その後、昭和40年代の終わりになり、特別養護老人ホーム、悠久園を開設しました。100名定員でスタートし、現在140名の定員です。

児童施設は、利用者が成長しても退出できない事情から、措置延長ということで、利用者数がどんどん増えてしまい、成人施設を作らないと対応できなくなりました。そうした背景から生活介護・入所支援の光風寮を昭和57年、第2光風寮を昭和63年に開設しました。第3光風寮は元々は昭和59年に児童施設として建てたのを転換し、平成19年に現在の場所に移しました。松山荘も、元々の児童施設を障害者施設に転換し、平成10年に毛呂山町に移転してきました。

                  
                           光風寮

報恩施設は、入所型の就労支援施設です。当時は知的障害者福祉法に、入所授産施設がありました。現在、入所授産施設は作らないという行政の方針で、作れません。当時は、創設者の父の考えで、入所授産施設があった方がよいということで、報恩施設を作りました。授産施設は本来は仕事を提供する場ですが、同時に日常生活をみるという事業内容でスタートし、現在の報恩施設も、就労継続支援と同時に、日常生活支援を兼ねています。

                 
                          報恩施設

人数は少ないですが、企業に雇われて仕事に就いている利用者の方もいらっしゃいます。仕事はそれなりにできても、日常生活を普通に送ることの方が、実は障害者にとって難しいのです。雇い主が、障害者の日常生活にも配慮してくださる企業でないとお願いできなということです。

行政の方から就労支援は基本的には通所でよいという方針が示されており、今後生活支援施設に移行せざるを得ないのではないかと思っています。

児童施設は、昭和50年代の半ばに障害児の完全就学制がとられ、養護学校(今の特別支援学校)の設置で、社会需要が減ってきました。児童養護施設の入所者が減ってしまったので、ある時から知的障害児も受け入れるようになり、知的障害児施設の入所が減ったこともあります。最近の入所者は、親の育成放棄のような状況とか、一番緊急性があるのは子どもによる家庭内暴力です。最終的には、成人施設に転換をせざるを得なくなっています。いつでも転換できるように準備をしています。これは平成30年までに決めなければいけないことになっています。

現在、施設は9つありますが、知的障害者向けが主です。それと高齢者と生活保護、児童福祉法の施設が加わっているわけです。埼玉医科大学が昭和47年にできて、規模の拡大に伴いスペースが足りなくなってきて、知的障害者施設は川角(市場)地区に集約してきました。川角地区の知的障害者6施設だけで約540名を受け入れており、埼玉県内でも利用者数的には大規模な施設群と思います。


平成6年から理事長に

私は、昭和21年、丸木清美前理事長(前毛呂病院理事長、前埼玉医大理事長)の次男として生まれました。長男清浩は、埼玉医大理事長・県会議員を務めました(現在埼玉医大名誉理事長)。

医者の家系でしたので、私は兄のいざというときのバックアッパー役として医者になることを求められていたのですが、やりたいことがあるということで、別の道に進みました。東京大学工学部の原子力学科を出ました。

ただ、学生時代は学生運動などいろいろなことがありまして。原子力は所詮、長く使うエネルギーではないと考え、やめました。技術を生かせればと、毛呂山の建設会社に誘われて、仕事をしたこともあります。

人間とはどういう動物なのか。人間を知ることが自分の課題と考え、大学で経済か歴史でもやりなおそうかと思っていたら、父に、「手伝え」と言われ昭和48年、毛呂病院の仕事に携わりました。翌年、埼玉医大学で臨床検査技師の専門学校を作るというので、専任教員として大学に移籍。50年2月には、育心会でいろいろな問題が起き、立て直し命令を受けて、こちらにも関わることになりました。

それから、毛呂病院、埼玉医医科大学、育心会の場で、父の指示のもといろいろな仕事に関わりました。223年前までは、大学の仕事が多かったですが、その後育心会の実質的な理事長補佐として育心会に専念することに。当時は、育心会本部が埼玉医科大学本部と同じ場所にありました。正式に理事長に就任したのは、平成6年です。

 塀も扉もカギもなくし、障害者を自由に

施設で、塀で囲っているのは児童福祉施設と光風寮の一部だけ。新しく建てた施設は、塀を作っていません。部屋のカギも掛けません。

僕は医師でも専門家でもなかったことが大きいと思います。育心会の立て直しを命ぜられた時に、救護施設を見て、なんとなくおかしいと感じました。要は、我々の日常生活と比べて、すべて閉じた中でのサービスが行われている利用者さんの生活に違和感を感じました。

この違和感は一体何なんだろうということがスタートなのです。考えていたら、結局この狭いスペースで生活が閉じていて、それ以上発展しない形になっている。これはおかしいと。

この人たちが、障害を持っていないならどういう生活をしていたのだろうか。普通の人とほとんど同じであるはず。そういうことが認められていない。今でいうノーマリゼーションの考え方にそこで行き着きました。

このままではまずい。そこで、やり出したのは、働ける時間は少しでも仕事をしよう。スペースがあったので、作業棟を作った。その次に、自由に出られないのはおかしい。塀や扉を開放し、部屋の施錠もなくしました。

当時の行政の方針が、障害者に対しては隔離保護なんです。今でも、施設に入っているのは、社会で暮らしているのと異なるなどとを言われるのは、その発想が残っているからです。私は、これはたまたま障害者が集まっているアパートに過ぎないという考え方にすべきだと言いました。

外に出る時には職員に声をかければ、外出は自由です。開放して最初に困ったのは、精神障害者の方が町に買い物に出たら、施設の50m先で迷子になってしまった。迷子が非常に多く出ました。しかし、戻ってきた利用者の方に「外に出てはいけない」と言ってはいけませんと職員に指導しました。職員も、隔離保護が長く、管理発想が強いですから、職員の意識改革を同時に進めなければなりませんでした。

たとえ施錠しても外に出ようとする人は出る。逆にいつでも出られるという生活環境を提供すると安心感からか、無断外出や無理に外に出ようとする方が少なくなる。学生寮と同じです。

現在も多くの施設は隔離保護の歴史を背負っており、ここまで自由にしている施設は少ないと思います。事故が起きた時どうするとか、責任を持てるかとかを心配します。しかし、我々だっていつ交通事故に遭うかわからない。リスクは負わなければ社会生活はできません。


食事・入浴施設を別棟にして意識を変える

新しく建てた施設は、建物の構造も変えました。

元々はそれぞれの施設は、閉鎖的で1棟の中で生活が完結する構造で作られています。また、障害者は、特に以前はモノを壊す人が多かったので、部屋には物を置かず部屋と部屋の間にモノを置く専用スペースを作ってあります。

変えだしたのは、報恩施設の建設(平成4年)あたりです。居室を2人部屋にし、居室・共通スペースと作業場を別棟に分けました。

昭和50年に救護施設を運営・管理した際の経験で、一度施設から外に出ることによって人の意識が変わることがわかりました。作業棟を分けることで、これから仕事に行くんだという意識の転換ができるのです。

第2光風寮(昭和63年)は、第1光風寮にほぼ準じていますが、部屋の中にモノを置けなくするのでなく、壊されてもいいから置くように変えました。

その次が、松山荘(平成10年)で、私が理事長を引き受けた後にあたります。松山荘の場合は、作業棟、食堂・入浴棟を分けました。3棟構成です。外に出ることで意識が変わるということと、もし彼らが社会復帰する場合も外食が多くなることが想定され、外に出て食べる習慣に慣らした方がよいという理由です。

第3光風寮(平成19年)も、居室棟と、別館(2階は作業場、1階に食堂とお風呂)を分けています。またアパート形式の別館(20室)も設けました。それまで、別棟は必ず職員がいなければいけないという規制があったのですがそれが緩和され、ただちに職員が行けるなら常駐しなくてもよいとなりました。 

                            
 第3光風寮(右奥が住居棟、左が食堂・浴室・作業棟)

 こうした建て方は、日本では初めてです。全部1棟の中でできるようにしてきたのが、当たり前になっていました。別に建てることで費用はかかりますが、厚生省(現厚生労働省)でもこの建て方は画期的だと認めていただきました。

もう一つ、耐火の点から、以前の建物は不燃性の材料を使っています。不燃性の建物はどうしても硬くなります。もう少し居住性を高めたいと思い、難燃性ではあるけれど不燃性ではない材料を使いました。すると、火災が問題になります。火災が起きると1室で収まらない。第3光風寮もそうですが、そのために、ベランダをめぐらし、部屋からただちに外に出られる建築にしました。


   第3光風寮居室

 

障害者は一人ひとり異なる

 以上のようなことを1つずつ進めていき、いろいろなことが分かり出しました。

たとえば、世の中の障害者の捉え方がおかしい。私は、毛呂病院・埼玉医科大学の敷地内に自宅があったため精神障害者、知的障害者と一緒に育ってきています。障害者に幼稚園に連れていってもらったり、おやつを一緒に食べたり。だから「障害者」という画一的な見方がありません。障害者には、障害による固有の特徴があります。この固有な特徴が平均的に多いということです。そして、そういう特徴は障害者全員が持っていると思いがちですが、実際はそれぞれ異なります。だから個別支援が必要なのです。

障害者だと言われると先入観が入り、見えなくなるのです。本当の実体を見るには、普通の人だという前提で向き合うことが必要です。その上で、ここが普通の人と変わっているぞというところにハンディキャップがあるということです。

個別支援は言葉が先行し、手法が確立されていません。充分に実践できている施設も多くありません。永遠の課題になりますが、一人ひとりをきちんと見ること。一人ひとりが違う能力を持って生まれており、それを画一的に見てはいけません。一人ひとりを知ることが、最初である。それが個別支援の基本です。

だから、個別支援を充実させるには、まず利用者の障害の特性を一人ひとりを知る力を職員が身につけること。その上で、その人に合った返し方をしませんと、その人の持っている性格などとけんかをしてしまいます。一人ひとりを知った上で技術的にどう対処するかです。

                                     

                                   自由を尊重したアパート形式の第3光風寮別館

画一的なバリアフリーは好ましくない

もう1つは、人が人格を形成するには環境が重要です。ですから、どんな人にでもいえることですが、普通の人がしているような経験をいかにさせるかです。生活環境を普通の人と同じようにするよう近づけていくこと。まさにノーマライゼーションは、そこにあります。

私はノーマライゼーションは、一つは支援の「削除」だと思っています。知的障害者の場合、極端に現われます。親元で育てられた子は、可愛そうだからとできることまで全部介助する。施設に来ても、口パクです。自分でやらせれば食べられるのです。

バリアフリーにすると、能力が引き出せないこともあります。デコボコ道を歩けば、デコボコ道でも対応しますが、平らな道しか歩かないと、デコボコ道で怪我をすることになる。

バリアーはある面では、人の能力を引き出すために重要な役割をしている。バリアフリー住宅を作るのではなく、その人に合ったバリアーにできる設計をする、というのが私の考えです。全部バリアフリーにしなければいけないと思ってしまうのが最近の風潮です。

それからこういうケースも実際はあります。買い物に行く時、「後で払いに来るからつけておいて」となる。すると中には、払わなくても買えると、学んでしまう人がいる。万引き養成しているようなものです。だからきちんと自分で払わせなければダメなのです。

その経験が必要です。普通の経験をさせる中で何ができるか。外に出たら皆が交通事故に遭うか。そんなことはありません。本能的に安全なテリトリーを知っていますから、そこからは出ないのです。自由にしてよいとした方が、この施設にいたくないからと飛び出す人は少なくなりました。

こんなこともありました。利用者が窓ガラスを雑巾で拭きだした。誰が教えたのかわからなかったのですが、実は職員が忘れて置いておいた雑巾で勝手にやり始めたのです。そこで、「ありがとう」と声をかけたら、はげみになって毎日仕事をするように。

一人ひとりに合った対応をし、ストレスをなくし、次ははげまして、自分が役にたっているのだということがうまく見つかると、問題行動の大半が消えてしまいます。

こうした試みの積み重ね、試行錯誤の繰り返しの結果として、育心会の目指す社会福祉、障害者支援が実現できればと考えています。障害者一人ひとりを見つめる、真のノーマライゼーション実現を目指すことが重要です。

                       (取材2016年4月)
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