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「健康オタク」だった
徳川家康

天海僧正の教えに従い
「粗食」を守る
松尾鉄城さんに聞く

 徳川家康は健康に気を使い、75歳と当時としては長寿を全うした。食事は「粗食」を心がけ、鷹狩りや水泳など身体の鍛錬にも精を出した。家康の健康法には、徳川3代政権に仕え自ら108歳の長命だった天海僧正の教えも影響を与えている。徳川家康の健康法と天海僧正の教えについて、松尾鉄城女子栄養大学客員教授(川越市文化財保護審議会副会長・ふじみ野市文化財保護審議会会長)にお話をうかがった。


松尾先生

家康は歴代将軍で実質最も長寿

―家康は健康に気をつかう人だったようですね。

松尾 家康は元和2年(1616)の4月に亡くなっています。75歳でした。歴代将軍で慶喜(77歳)に次いで長寿です。慶喜は大正時代まで生きたので西洋医療の恩恵を受けていると考えられますので、実質的には一番長寿と言ってよいと思います。家康は、今で言う「健康オタク」と呼べるほど、健康に気を使っています。

 


東照大権現像(徳川記念財団蔵、埼玉県立歴史と民俗の博物館HP)

―家康の健康への取り組みは天海僧正の影響があるのではないかと考えるわけですね。

松尾 天海は、天台宗の僧侶で川越喜多院の住職を務めたこともあり、徳川3代政権に仕えました。元和2年に家康が駿府で亡くなり、遺骸はいったん久能山にまつられましたが1年後天海が采配し、家康の遺骸を掘り出し日光に移す。途中川越喜多院で4日間供養する。 それだけ家康と天海のつながりは深かった。天海の教えに家康は傾注していました。天海は自ら108歳(135歳という説もある)の長寿を全うし、健康法を体現しており、それを家康に伝えたと考えられます。

 


天海僧正坐像(喜多院慈眼堂蔵)

天海が伝えた2つの「長寿歌」

―天海が伝えたのはどのような内容だったかわかるのですか。

松尾 天海が残した2つの歌があります。私の高校時代のときですが、喜多院の先々代の御住職塩入亮忠先生(昭和20年8月東京浅草寺から喜多院の住持となられた)より「長寿歌」として教えていただきました。

テキスト ボックス: 気は長く
つとめはかたく
色うすく 
食ほそうして
  心 ひろかれ

 「気は長く」 短期でカッカしちゃいかんよ。

 「つとめはかたく」 やるべきことはきちんと
       やりなさい。

 「色うすく」 忙中、閑あり

 「食細うして」 食べ過ぎず、腹八分目。
      ぜいたくはしないこと。

 「こころ 広かれ」 どの人にも愛情を注ぎ、
        差別しない広い心を持ちなさい。

 
 実は、天海の長寿歌がもう1つあります。

 

テキスト ボックス: 長命は
 粗食 正直 
日湯 陀羅尼 
おりおり ご下風 
あそばさるべし

「粗食」その土地の旬の食べ物を食することが健康
    によい。

「日湯 陀羅尼」 日々、体を清潔に。

「御下風」ガス(おなら)を出しなさい。繊維質を
   しっかりとりなさいということ。

天海は、このような考えで修業し、教えを説き、自らも実行し、108歳までの長命を全うされたのでしょう。その教えを家康は、大事にしたのではないでしょうか。

  

地元の旬の食材を食べる

―家康は具体的にどのような健康法を実践したのですか。

松尾 家康は天海の教えを健康の秘訣として、日々の生活に活かしたと考えられます。特に、食生活における「粗食」という言葉です。「粗食」とは、決して粗末な食事を意味するものではありません。地元の旬の食材を主に、ご飯と味噌汁に少しの副菜と香の物の食事を粗食と言います。家康は、誕生、人質時代の幼少期・青年期と三河、駿河(現静岡)で過ごしました。それぞれの土地の旬の食材を食べていたと考えられます。現在でも岡崎の名物八丁味噌も家康の時代の食材です。亡くなるまで非常に健康であった秘訣は、その土地の食べ物を大切にし食すると共に鷹狩りや水泳など運動も大事にしたことにあります。

―家康はどのようなものを食べていたのですか。

松尾 私は「徳川家康の健康法」(絶版)という本を読み、家康が好んで食べたものを調べました。

鰯(いわし)の丸干し:中でも三河の鰯の丸干しが大好きでした。鰯は雑魚ですが、血液の流れをよくするDHAやEPA、骨や歯を丈夫にするカルシウムやビタミンDが豊富に含まれます。

麦飯:それから麦飯を好んで食べた。麦は低カロリーでビタミンB1や繊維質、カルシウム、鉄分などを豊富に含み、糖尿病の予防にもなります。そういうことを本人が知っていたかどうかは別にして、土地の人たちが麦づくりをしていて家康はそれを好んで食べたとされます。また家康は玄米を好んで食べていました。玄米は、栄養価が高く、食物繊維も豊富です。

芋がら縄:これは、さといもの芋茎(ずいき)を味噌漬けにして干すと強いひも状にしたものです。味噌は家康の故郷岡崎でつくる八丁味噌。この芋がら縄は、弓の矢や鎗などを束ねるのに役立ちました。同時に、籠城した時のことも考えたのでしょう。綱として活用すると共に、籠城が長くなった場合、それを切って、煮れば味噌汁になります。豆味噌ですから、植物性たんぱく、ミネラルも含みエネルギー源になったわけです。

なす:駿府では、地名から「折戸なす」と言いました。ちょっと丸い形のなすです。なすは体を冷やすカリウムが豊富で、皮にはポリフェノールの一種が含まれ動脈硬化、高血圧予防にもなります。その場合、なすは皮をむかずに食べると一層栄養効果があります。

蓮根:家康は、蓮根も好んで食べていたようです。穴が開いているので先が読めるという縁起もかつぎ正月料理になっていますが、家康は山芋と一対一でまぜてすり潰し麦ごはんにかけて食べたといわれます。蓮根や山芋に含まれるムチンが腸内細菌を活性化し免疫力を高める効果があります。

動物性たんぱくを食べなかったわけではありません。仏教思想から四つ足の動物を食べてはならないという風習はありました。そこでお坊さんたちは、鶏肉は食べていました。また、都合のよい解釈をし、四足ではあるけれども兎は鳥と同じと解釈し食していたようです。そのため、兎の長い耳を羽に見立て、数え方を「1羽、2羽・・・」と今でも鳥と同じように数えますね。鶏肉のモモ、胸肉、兎の肉は、牛や豚と比べカロリーが低く、脂質も低い。しかし、たんぱく質の成分量は高いという特徴があり、高齢者には適切な食材といえます。こうしたことも、家康は意識していたのではないでしょうか。

―家康は天海の教えを守って、「粗食」をもっぱらにしたということですか。

松尾 家康は天海を非常に尊敬し、天海から様々な講義を受けていますが、健康に関するアドバイスを第一に考えたのではないでしょうか。長寿歌にある「粗食」とはこういうものだろうというのが私どもの解釈です。それを守って、自分の土地のものを最後まで大事にして食したということではないかと。それは、同時にその土地の食料生産の活性化にもつながり、漁民・農民、庶民の経済生活に潤いをもたらしたとも考えられます。

 

家康の人生哲学

―家康が天下人という地位に上がりながら、粗食に甘んじたのは、驚きです。

松尾 家康は、将軍だからと言って、ぜいたくをしていません。生活も、民衆に寄り添うという模範を示しています。これは家康の人質時代が長く、庶民の苦しみを見てきていることからくるのではないでしょうか。

家康は三河で生まれ、いったん織田に人質に取られすぐに今川の人質になって、6歳から20歳まで14年間人質生活を送っています。そういう中で得た人生哲学を、有名な「東照公御遺訓」とされる歌からうかがうことができます。

テキスト ボックス: 人の一生は、重荷を負うて 遠き道
をゆくが如し 急ぐべからず 不自由
を常とおもえば不足なし こころに望
おこらば困窮したる時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基い いかりは敵と
おもえ 勝つ事ばかりを知りてまくる事をしら
ざれば 害其の身にいたる 己を責めて
人をせむるな 及ばざるは過ぎたるよりまさ
れり
 

      この中の「及ばざるは過ぎたるよりまされり」とは、天海の歌における「食細うして」、「粗食」に通じます。家康の健康、長命の背景には、こうした人生哲学もあったと考えられます。

 

鷹狩り

―家康の健康法と言えば、鷹狩りもあります。

松尾 「一富士二鷹三茄子」は家康公の生きざまから生まれたことばではないかとも言われています。鷹狩りが大好きで、1千回以上に及ぶ鷹狩りをやったようです。70歳を過ぎても水泳をやり、死ぬ直前まで鷹狩りに行っています。元和2(1616)年4月17日75歳で亡くなりましたが、1月に鷹狩りに行っているのです。駿府の田中城に行き、そこで腹痛を訴えたといわれます。一説には天ぷらにあたったともよく言われるが、そうではなく胃がんだったのでないかという説が有力です。食中毒なら4月まで命があるはずがないのではないでしょうか。

―鷹狩りの目的は健康だったのでしょうか。

松尾 身体鍛錬が一つですが、当初は民情視察、軍事訓練などいろいろな目的がありました。興味深いのは、『徳川実記』によると川越地方に鷹狩りに出た記録を読むと11月、12月、1月の、稲刈りの終わった時期が多いことに気付きます。渡り鳥が飛んでくる時期でもありますが、稲刈りの時期では田んぼを荒らし、稲をダメにしてしまいます。先の『実記』から場所を推定すると畑地帯では鷹狩りをしていません。農民たちの被害ができるだけ大きくならない時期、場所を選んでいたと考えられます。家康から家光にかけての将軍、農民たちに心を寄せる政治に心掛けていたことがうかがえますね。

ふじみ野市の権現山に家康が鷹狩りに来た

―ふじみ野市の権現山に家康が鷹狩りに来たとされています。

松尾 家康は10回ほど川越地方に鷹狩りに来ています。ふじみ野市の新河岸川の面する権現山は家康が鷹狩りに来た時休憩した場所とされ、江戸時代、元禄の頃から家康公をまつり、現在も天保11年の石碑が立っています。 古墳でもあり、昭和38年当時の福岡町で最初に指定された史跡が権現山です。新河岸川対岸にある蓮光寺(川越市渋井)は、権現山と同じ時かどうか不明ですが、『新編武蔵風土記稿』によると家康が鷹狩りの際、蓮光寺でお茶を所望し、朱印7石をいただいたとあります。蓮光寺に行くと、葵の家紋が本堂屋根の棟のところに見えます。偶然ですが、権現山のちょうど真東にお寺があります。ふじみ野市に家康が来たんだということを今の市民にも知ってもらいたいですね。


権現山にある家康が鷹狩に訪れたことをまつる碑
 

―家康が権現山や蓮光寺に来たのは何か理由があったのでしょうか。

松尾 川越城は後北条氏の支配下の重要な拠点の城でしたから、後北条の家臣たちが“つなぎの城”と言われるような場所をもっていました。蓮光寺の南方、新河岸川沿いのふじみ野市下福岡に後北条氏の家臣とされる富永善左衛門という人の館跡が「城山跡」として史跡に指定されている場所があります。天正18(1590)年、家康が豊臣秀吉の命で、江戸城に入府し武蔵国を治めることとなりました。その折、川越周辺における後北条氏関係の砦的な館一帯の状況、民衆の生活実態を知るためと、後北条氏の残党が潜んで再度反旗を翻すことはないかと軍事視察を行い実態を把握する意味もあって鷹狩りと称してこの地を訪れたと考えることもできるのではないでしょうか。

         (取材2020年8月)