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知られざる英傑

回漕問屋福田屋十代目 星野 仙蔵

私たちが日々お世話になっている、東上線の開通に尽力した一人の男がいる。ふじみ野市上福岡の福岡河岸記念館として建物が残されている、回漕問屋福田屋十代目、星野仙蔵である。 その生涯は、河岸問屋経営のみならず、鉄道誘致、政治、剣道、文化、水害救助など多岐にわたり、波乱万丈、地域に大貢献した英傑である。
                    (岩瀬翠)

  
星野仙蔵(埼玉県ホームページより)

 

東上線開通に功績

 

 仙蔵が最初に鉄道敷設計画に、かかわったのが明治29年で、群馬県の渋川と東京を結ぶ毛武鉄道である。株主の一人として創業総会にも出席したのだが、この計画は挫折する。

 明治35年、仙蔵自らが発起人となって、東京と川越を結ぶ、京越鉄道を計画したがこれも挫折する。

 明治35年、衆議院議員に当選した仙蔵は、山梨県出身の衆議院議員で、実業家の根津嘉一郎と出会った。当時、東武鉄道株式会社の社長であった根津嘉一郎に、仙蔵が東上鉄道への関与を依頼したと推測される。

仙蔵が議員引退後の、明治441115日、東上鉄道株式会社創立総会が開催された。

このとき、根津嘉一郎が取締役社長に、仙蔵は監査役に就任し、埼玉県下の用地買収を担当した。

土地の買収は、いくつかの町村で難航した。敷設計画の路線変更や、それに伴う治水上の問題、買収価格の折衝などの問題が浮上し困難を極めた。

その一方で福岡村内に停車場を設置する運動も展開していた。当時の柳川汎吉村長等と協議、経費を村内の寄付などでまかなうよう説得、上福岡停車場が開業した。このときに仙蔵は個人としては、最大規模の資金提供を行っている。また、鶴瀬停車場設置の際にも、地元民と会社の仲介役として働いている。

 多くの問題を克服して、大正351日、東上鉄道が開通した。

 政治家として篤志家として、地域の人々の人望が篤かった、星野仙蔵の功績は大きい。



大水害被災地を救う

 

 明治438月、降り続く長雨や豪雨により、河川の水位は上昇し、かなり危険な状況となっていた。八月十日、ついに各所の堤防が決壊、濁流が村々を呑み込んだ。

仙蔵は自己の保有米をただちに放出、数ヶ所に炊き出し場を設け、握り飯を伝馬船に積んで自ら被災地に配布、所有米がつきると、東京などから購入している。

仙蔵が被災者の救済をしたのはこのときだけではない。明治419月の水害時にも、百円の寄付をしている。


福岡河岸記念館、福岡駅碑・・ 福田屋・星野仙蔵、その史跡

 

 

福田屋が河岸問屋の営業を開始したのは、天保2年のことである。

新興の福田屋が、吉野屋や江戸屋と肩を並べる問屋に成長したのは、八代目仙蔵の時代である。回漕業のかたわら肥料商・荒物や酒の小売・金銭貸付・地主経営へと事業を拡大、当地方第一の資産家といわれるようになっていった。

また、八代目仙蔵は、明治8年に起きた養老橋付近の村境論争を解決している。その後、福岡村の戸長を七年間務め、三福学校の建築費や、川越の大火の寄付など、常に地域住民への援助を惜しまなかった。

祖父である八代目仙蔵の生き方は、十代目仙蔵の水害救済活動へと受け継がれた。

大水害は、福田屋の経営基盤となっている地域も水没させた。それに加え、被災民の救済に要した多額の出費は、福田屋の経営を危機に追い込んでゆく。

明治4312月、福田屋は廃業、財産整理が行われた。負債総額は34817円余、所有する土地は、田畑、山林、宅地など、合わせて約30町。仙蔵が十代目を襲名した時は、約85町所有しており、かなり減っている。

それにもかかわらず、仙蔵の企業家としての意欲は、少しも衰えてはいない。大正3年、東上線開通と同時に、上福岡駅前に星野運送店を開業、大正4年には星野精米麦工場を開業している。

また、新河岸川河畔にある福岡河岸記念館は、昭和62年に星野家から寄贈されたものである。

明治期の舟問屋の様子を伝える、貴重な文化遺産で、帳場が置かれた母屋と台所、文庫蔵、離れが残され、舟運と問屋の暮らしを展示した資料館となっている。

敷地内にある離れは、明治33年ごろに建築された埼玉県内でも例の少ない木造三階建で、おもに接客用に建てられたものである。

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 上福岡駅北口の東武バス折り返し場の片隅に、ひっそりと建つ一基の石碑がある。

東上線開通直前の、大正3年2月に建立された、福岡駅碑だ。星野仙蔵が東上鉄道実現に果たした功績をたたえたものである。地元関係者が建立し、当初は駅のホームにあったのだが、後に現在の場所に移設された。

 今では石碑の存在を知る人は少ないと思われる。

 


星野仙蔵小伝

 

仙蔵が生まれたのは、新橋・横浜間に鉄道が開通する1年前の、明治4年1月15日である。父親は福田屋の九代目寅右衛門、幼名は安太郎といった。

 かなりわんぱくだったようで、いつも腰に迷子札がつけられていたという。近所の子供たちを引き連れて、棒切れを振り回し、元気に走り廻る男の子だったのだろう。

父寅右衛門は八代目仙蔵の弟で、八代目仙蔵に子供がいなかったため、養子となったのだが、九代目を継ぐことなく早世した。そのために、安太郎は祖父の八代目仙蔵に養育される。

明治15年、三福学校の中等小学第六級を卒業し、翌年湯島聖堂の漢学塾、二松学舎に進学する。

 

 剣道にかけた情熱

 

 仙蔵はこのときに剣道と出会ったのである。九段坂の憲兵屯所で毎日曜日、根岸信五郎と磯貝昇に指導を受け剣道にのめりこんでゆく。

仙蔵の師根岸新五郎は、幕末の剣客斎藤弥九郎の弟子である。弥九郎の開いた錬兵館は、桂小五郎、高杉晋作、渡辺崋山、渋沢栄一などが育っているという。

武士階級の消滅により、剣術が衰微していったこの時期に、仙蔵の心が剣術に傾いていったのは何故だろう。

多分、根岸信五郎に出会ったからではないだろうか。推測でしかないが、師である根岸信五郎から、錬兵館や、幕末三剣客といわれた斎藤弥九郎の話を聞いたのであろう。

若い仙蔵が、剣術にのめり込んでいった気持ちが、分かるような気がする。剣道にかける仙蔵の情熱は、たいしたもので、他にも直心影流の間中隆吉・野見鍉二郎、小野派一刀流の高野佐三郎にも師事している。

明治二十七年一月、自宅に福岡明信館という道場を開設、川越中学や川越警察暑でも剣道を教えており、明治三十六年に、根岸信五郎から神道無念流の免許を受けている

 ちなみに、剣道という名称が公的に使われたのは1926年からである。

 

政治家の道

 

 仙蔵が政治の道を歩み始めたのは、26歳のときである。明治299月、大地主互選により、入間郡会議員に選出された。

 政治家の道を歩み始めた仙蔵は、日本画家の橋本雅邦を後援する川越画宝会の会員となり、川越周辺の政財界人とのつきあいに参画している。

明治32年憲政本党系の候補者として県議選に立候補し、当選するが、明治33年伊藤博文が立憲政友会を結成すると、憲政本党を脱退し、立憲政友会埼玉支部の評議員となり、明治36年の県会議員選挙で、トップ当選を果たした。

その後、川越の綾部惣兵衛などに擁立され、明治37年3月の第九回総選挙に、立候補し当選、衆議院議員となった。仙蔵、34歳の時である。

仙蔵は在任中、剣道もしくは柔道のどちらか一方を、体育正課として取り入れる旨の建議案を衆議院に提出した。当時の文部省は、武道を遊戯であり、むしろ害が生ずる恐れがあるとして、学校教育にとりいれることを、強行に反対していたが、明治39年に可決された。現在、中学以上の体育の一部に、剣道や柔道が取り入れられている。

 仙蔵が、衆議院議員を勤めたのは、この一期だけである。

 明治41年の衆議院議員選挙の出馬を断念したからだ。その辺の事情を推測させる文章がある。

「衆議院議員在任中は、地域利益を誘導するような動きをしめしていない。そのため政治活動自体で政治資金が調達できず、福田屋の財産を切り売りし、借金をかさねることにつながったのではなかろうか」(上福岡市史・通史編) 

 

大水害感謝状

 

仙蔵が、48歳でこの世を去ったのは大正6年のことだった。

 資料の中に一枚の写真を見つけた。それを見て、胸の奥がチクと痛んだ。

それは、明治43年の大水害感謝状だった。贈り主は埼玉県、贈り先は「平民 星野仙蔵」となっている。四民平等が唱えられたにもかかわらず、皇族・華族・士族・平民の階級制が、温存されていたということを改めて実感した。

仙蔵が生きたのは、そういう時代だったのである。


(本記事は、「東上沿線物語」第12号=2008年4月に掲載されたものです)
 
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