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中世史に大きな足跡を残した比企一族
頼朝を支えた比企の尼 子どもたちもそれぞれ活躍

伊豆に流された源頼朝の世話をし鎌倉幕府設立のカゲの立役者となった比企の尼。その子どもたちは、時の政権内外で目覚ましい活躍をするが、北条氏との争いに敗れ、その後歴史に埋もれてしまった。比企氏の拠点であった東松山市の西村裕さんは比企一族歴史研究会というグループを立ち上げ、比企氏の真実の姿を探求、研究を続け、『探訪 比企一族』(まつやま書房)を著した。西村さんに比企一族についてお話いただいた。

 

頼朝が14歳で伊豆に流され14歳で旗上げするまでめんどうをみる

―比企氏とはどのような一族だったのでしょうか。

西村 一番のポイントは、源頼朝が14歳で伊豆に流され、それから34歳で旗揚げするまで、ずっとめんどうを見たのが比企一族、中でも比企の尼であったということです。元々比企遠宗が源義朝(頼朝の父、平治の乱で平清盛に敗れる)の家来でした。その奥さんが比企の尼で、頼朝が生まれた時乳母となります。当時7人の乳母がいたらしいですが、伊豆に流された時に、乳母の中でただ一人頼朝に従う。伊豆での伝承によると、平家ににらまれて来ていますから、村人も近づかない、比企遠宗は、平治の乱で傷を負い、早くして亡くなったらしい。そういう状況で、比企の尼は、「吾妻鏡」に書いてあるところでは、比企を請所として比企の地から一人で頼朝のめんどうを見続けます。

―「比企」という名は地名からですか。

西村 元々当地が「比企」という地名であったから、比企氏を名乗ったわけです。

―比企氏のルーツは。

西村 よくわかりません。

―頼朝の旗揚げ以降は、比企氏はどう関わるのですか。

西村 伝承によると、頼朝の旗上げも、比企の尼が文覚上人と話し合わせ、平家打倒の作戦を練らせたとされています。頼朝は34歳で旗上げして鎌倉に入りますが、比企家を重要な地位につけていきます。

 

比企能員(よしかず)は、比企の尼の甥で養子、娘若狭局は源頼家の妻

―比企家とは比企の尼に子どもたちがいたわけですか。

 

西村 比企尼の長女が丹後内侍、次女が河越重頼(河越氏)の妻、三女は伊豆の伊東祐清と結婚させています。ところが伊東祐清は最後まで平家の味方だったので、源平の乱がおきた時に三女は別れて平賀義信という源氏の武将と結婚します。

 比企能員(よしかず)は、比企の尼の本当の息子ではなく、甥です。もう一人、実子に比企朝宗がいたのですが、鎌倉幕府ができてまもなく亡くなったらしい。そこで能員を養子にし家を継がせます。能員は鎌倉幕府の中で北条氏と地位を争うまで出世していきます。ですから、比企家は母である比企の尼と、娘が3人と比企能員という構成になります。

長女の丹後内侍は薩摩の島津家初代の島津忠久の母

―それぞれの子が、歴史的に重要な役割を果たすわけですね。

西村 長女の丹後内侍は薩摩の島津家初代の島津忠久の母です。父については、2つの説があり、惟宗廣言(これむねひろのり)という説、もう一つが源頼朝だという説。鹿児島の方では頼朝説をずっととっています。私も、その説です。

次女は河越重頼と結婚し、娘、郷姫(きょうひめ・さとひめ)は、源義経と結婚し、最後衣川の戦いで義経、生まれた4歳の女の子とともに自害します。

―鎌倉幕府内での位置はどうだったのでしょうか。

比企の乱、北条氏のだまし討ちで比企氏は滅びる

西村 比企家は、20年間頼朝のめんどうをみたことで、鎌倉に幕府を作った後、非常に出世し、娘たちもそれなりの活躍をします。頼朝が亡くなると、頼家が将軍になります。頼家の奥さんが能員の娘の若狭局です。頼家は比企家の女性たちが乳母になっていました。

 しかし、次に生まれた実朝は、政子の妹だとか、北条氏の人たちが乳母になりました。当時の乳母は非常に力を持っています。頼朝がなくなり、とりあえず18歳の頼家が将軍になったのですが、頼家・比企氏と、実朝・北条氏との間の争いが起きてきます。それで、結局、比企の乱と言われていますが、北条氏にだまし討ちにあって比企能員が殺されます。身内も殺され、ここで比企氏は滅びる形になります。

―比企の乱で若狭局も亡くなっているのですか。

西村 「吾妻鏡」は女性たちの生死については触れていません。頼家がその後修善寺に流され、翌年に殺されます。伝承では、その時若狭局は一緒にいて、比企に帰ってきます。大谷(現東松山市大谷)の地に庵を結び、祖母である比企尼と孫娘で頼朝、頼家の菩提を弔ったと伝えられています。若狭局が逃げてくる時に頼家の位牌を持ってきた。その位牌が、大谷の宗悟寺に残っています。

 
    宗梧寺 (東松山市)

頼家、比企派の時代になっていた可能性

―比企氏で特筆すべき人物はだれでしょうか。

西村 やはり比企の尼です。比企遠宗亡き後、ずっと頼朝のめんどうをみた。比企氏は女性の一族なんです。比企の尼は、娘たちを有力な武将に嫁がせたりして、非常に戦略的な人だったのではないかという気がします。

―北条氏の企みが成功しなければ、比企能員が幕府の枢要な地位に就いた可能性があるわけですね。

西村 そうです。頼家、比企派の時代になったかもしれない。頼家が2代将軍としてずっと続けば、頼家と若狭局の間に一幡という子が生まれていますから、この子が3代将軍となります。北条氏としては、自分たちが乳母をした実朝が将軍になってくれないと出番がなくなります。北条氏はそれを恐れたのでしょう。ある意味で乳母グループ同士の戦いでもあったわけです。

―一般には比企氏の評価はマイナス面が強いわけですね。

西村 歴史や小説では、比企の乱は、悪人である比企氏が鎌倉幕府を乗っ取ろうとして起こしたとして描かれていますが、実際は北条氏にだまされて滅亡したというのが真実です。そもそも比企氏については、あまり記録も残されておらず、ある意味で抹殺されたような気配まであります。

―それでこの研究をされたわけですね。

西村 比企氏をもっとみんなに知ってもらってよいのではないかと、研究を始め、その結果この本を出したわけです。

各地の伝承を拾い上げる

―どのような手段で歴史を掘り起こしたのですか。

西村 比企氏は実際どうだったのかということを訴えたいと考えました。しかし記された歴史というのは勝者の歴史です。たとえば「吾妻鏡」は鎌倉時代に、北条氏の立場で書いています。敗者の歴史はどこにあるか。地元の伝承に残っているはずだ、というのが根本の発想です。東松山、九州、伊豆の韮山、蛭が島など各地の伝承を一つ一つ拾い上げました。

―各地に出かけたのですか。

西村 現地に行き、聞き取り、調べ、あるいは各地に郷土史家がおられますので、その方に教えていただいたり。2015年に『探訪 比企一族』を出版。一昨年に鹿児島に出向き、昨年6月『探訪 比企一族』増補新版(まつやま書房)を作りました。

―時間はどのくらいかかりましたか。

西村 合計4年くらいでしょうか。単なる歴史書ではなく、伝承を入れてそれをきちんと伝えるようにしました。それと、私は観光ガイドもしており、皆さんがゆかりの地を自分たちの足で歩けるような、紀行文のような形にもしています。

鹿児島には丹後内侍を島津家の生みの母として祀った神社が

―各地でどんな発見がありましたか。

西村 伊豆の韮山では、「比企の尼がいなかったら頼朝は殺されて鎌倉幕府はできなかった、鎌倉幕府ができたのは比企氏のおかげだ」と、おっしゃられていました。鹿児島の方は、丹後内侍は島津忠久のお母さんですから、島津家の生みの母として祀った神社があります。今は安産子育ての神にもなっていますが。そこまで大事にされているということに驚きました。


―比企氏ゆかりの史跡を教えてください。

西村 鎌倉の妙本寺、東松山では大谷地区、近在では吉見観音、岩殿観音、が主なところでしょうか。

―妙本寺はどんなお寺ですか。

西村 比企氏の屋敷があったと言われており、一族のお墓もあります。鎌倉に行ったらぜひ訪れたいところです。


比企の尼と若狭局が、頼朝、頼家亡き後庵を結んだ東松山大谷

―東松山の大谷地区はどのような場所ですか。

西村 宗悟寺という寺があります。比企の尼と若狭局が、頼朝、頼家亡き後、菩提を弔うために比丘尼山という山のそばに庵を結んだ。そこにあった頼家の法号からとった寿昌寺が江戸時代になって宗悟寺と名を変えました。近くの串引沼という沼には、若狭局が頼家形見の櫛を投げ入れたという伝承が残っています。
 
ただ、一人で行ってもわけがわかりません。ぜひ観光ガイドを利用してください。無料でご案内します。本当にのどかなところです。

 宗梧寺にある比企一族顕彰碑

   比企尼山   

 

吉見観音、岩殿観音

―吉見観音は。

西村 平治の乱で義朝が平清盛に負け、3男の頼朝は伊豆に流されますが、6男に範頼がいました。範頼も殺されるところを比企の尼が吉見観音に預けて、稚児僧として育つ。鎌倉に幕府ができてから範頼も呼ばれ、出世して、活躍しますが、結局、義経同様頼朝に疎まれて殺されます。

―岩殿観音は。

西村 鎌倉に幕府ができてからこの地は比企能員の領地だったと言われています。能員は岩殿観音の中興の祖にあたります。

  岩殿観音

 伝承では、比企の乱の後、一人の女性が岩殿観音にたどり着き、寺でかくまった。男の子を生み、その子は比企氏の名を継ぐ一人になった。能員の側室ではないかという説もありますが、よくわかりません。

―今、比企氏の血を継いでいる人はいるのですか。

西村 川島町に金剛寺という寺があり、ここは今も比企家の菩提寺で、歴代の墓があります。

比企一族歴史研究会、NHK大河ドラマ化を模索

―この本は、比企一族歴史研究会という会で発行されていますが、どういう会なのですか。

西村 東松山市が運営する「きらめき市民大学」という講座がありまして、そこの郷土学部を卒業した人たちで2011年から活動を開始しました。研究会の目的は、第1に比企一族を研究すること、2番目が比企一族を広く知ってもらうこと、3番目が比企一族でまちおこしになることをできないか、ということです。本は、初版の時は私と木村誠さんが執筆、今回の増補版は私が全部加筆修正を行いました。

―研究会はその後は。

西村 月1回研究会を開いています。今、比企一族をNHK大河ドラマにできないかと模索しています。なにしろ、女性陣の活躍が華々しいですから。島津忠久は出てくるは、義経は出てくるは。今年の10月6日に、東松山の市民活動センターで比企一族シンポジウムを開く計画です。

―比企氏はこの地域にとってシンボルのような存在ですね。

西村 比企の地の武将としては最重要でしょう。隣の菅谷には畠山重忠もいますが。

―研究会の活動によって比企氏が見直されるようになるとよいですね。

西村 これまで、あまりにも皆さん、比企氏を知らなかったですから。


―西村さんは、どんなお仕事を。

西村 今は退職していますが、ずっと会社勤めでした。

―出身は。

西村 東松山です。しかしずっと東京に通勤していました。

 

 伝承の面白さ

―歴史にお詳しい。

西村 歴史は好きでしたが、比企氏の名を知ったのは「きらめき市民大学」に入ってからです。観光ガイドクラブを作ろうと思って、そのためには郷土の勉強をしなければと「きらめき大学」に入り、そこで比企氏に関する講義を受け興味を持ちました。

―退職してから勉強し、調査したということですか。

西村 全部そうです。

―ここまで打ち込んだのは。

西村 伝承の面白さです。じゃあもっと調べてみようと、次から次へと。もう一つは、昔のことを知っている人がどんどんいなくなり、早く記録に残さねばいけないということもありました。

―今後は。

西村 まだ行っていないのが、平泉です。義経と郷姫の史跡です。比企一族をテーマに小説にしたいとも考えていますが、できるかどうかわかりません。

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