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20歳で自刃、徳川家に殉じた
渋沢平九郎
渋沢栄一の養子

渋沢栄一の従弟で養子となった渋沢平九郎。明治維新時、幕臣の子として新政府軍と戦い、20歳の若さで現在の越生町で自刃した。平九郎の没後150年を記念し、東京・北区の渋沢史料館で「渋沢平九郎―幕末維新、二十歳の決断」と題する展覧会が開かれている(12月9日まで)。同館副館長で学芸員の桑原功一さんにご説明いただいた。

 
       
         渋沢史料館

長身だった平九郎


  

 

 渋沢栄一の身長は
150センチちょっとでしたが、渋沢平九郎は174センチの身長がありました。平九郎は、1718歳にはその身長に達して、背が高いという評判だったようです。 

    

 











栄一より7歳下の従弟

 渋沢平九郎は、弘化4年(1847)、現在の深谷市の下手計(しもてばか)で生まれました。お母さんのやえさんが栄一のお父さんと姉弟で、栄一とは7歳違いの従兄弟同士です。兄弟のように育ったと思われます。生家の尾高家は名主をやるような豪家で、平九郎は6、7歳くらいから読書と習字を始め、9、10歳で神道無念流という剣術を始めます。平九郎は剣術を得意とし、178歳頃から人に教えるくらいの腕前でした。

 

    

      渋沢平九郎 生家」                   家系図

今も現存し、深谷市指定文化財と
  なって公開されています。

 

 

高崎城乗っ取り計画に参画

 渋沢栄一は20代で尊王攘夷運動参画し、1863年、平九郎の兄の尾高惇忠、従弟で後に彰義隊頭取になる渋沢成一郎などとともに、高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地を焼き討ちする計画をたてます。この計画に平九郎も参加するつもりでしたが、中止になります。栄一は京都に行き一橋慶喜に仕え、平九郎は兄の尾高淳忠と一緒に郷里にとどまり、家業(藍玉製造販売など)に務め、剣術を教えたり、学問をする生活を送っていました。

 

栄一渡仏に際し見立養子に

 1867年の初頭に栄一は德川昭武に随行し、パリ万博視察のため渡仏しました。その際、自分の身に何か起きた時、相続者がいないと、幕臣としての家がつぶれるので、平九郎を見立養子として幕府に届け出ます。その後平九郎は正式に幕臣栄一の養子となります。

平九郎はこれで武士の道に進み、10月に江戸に出て、屋敷を構えます。今の日本橋室町で、三越日本橋本店にもほど近いところです。そこで文武修行に励みますが、時は幕末の激動期。10月に大政奉還、12月王政復古号令で、明治新政府が樹立されます。 

68年になると鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が薩長を中心とする新政府軍に敗れます。平九郎は悩み、フランスにいる栄一に「幕臣として痛心の至り」とか「徳川氏の大危急です」などと、手紙を書き送ります。やがて慶喜が江戸に戻り寛永寺に謹慎し、彰義隊が結成されます。 

                                 

          

「フランスにいる渋沢栄一宛てに送った平九郎の書簡」

鳥羽伏見の戦いで、旧幕府軍が負けたという情報を、平九郎が栄一に宛てた手紙です。「早く昭武と一緒に日本に帰ってきてください」とも言っています。3月8日は、新政府軍が江戸に迫っていた時期。左手に大刀の鯉口を握りながら書いているとも。

               

彰義隊結成に参加、分裂振武軍に

彰義隊結成時の中心メンバーには、平九郎の従兄の成一郎、須永於莵之輔らがいました。2人は一橋慶喜に栄一と一緒に仕え慶喜が将軍になると幕臣になっていました。平九郎も参加、第二青隊伍長となりました。新政府が江戸にせまるなか水戸藩と連携をはかり、関東が新政府の支配になっても、いずれ徳川家の再興を図ろうという構想をもっていたようです。そこで3月から4月に北関東を経由して水戸に行く。江戸が無血開城となり、慶喜は4月11日に江戸を出立し水戸に隠遁、平九郎は水戸で慶喜に挨拶し、江戸に戻ります。

江戸に戻ると、彰義隊の内部が渋沢成一郎派と副頭取の天野八郎グループで対立。平九郎は天野派による襲撃を受け、新政府からも狙われ、彰義隊から分かれようと。そこで誕生したのが、振武軍です。5月前半に田無村にいた。その間上野戦争が起き、彰義隊を支援しようといったん江戸に向かうが、彰義隊は早く壊滅してしまうので、引き返し5月19日に平九郎は飯能に入ります。本営は能仁寺という寺に置かれた。

 

越生で自刃

5月23日に新政府軍が飯能に攻め込み、平九郎も出陣するが敗れ、一人落ち延びて、越生の黒山のあたりを町の方に向かっていたらしい。黒山の道で、新政府についていた広島藩兵たちが数人通りがかった時、見とがめられる。尋問されるうちに、平九郎も刀を抜き戦い追い詰められ、自刃。20歳でした。

平九郎が自決した場所は、越生の黒山三滝から越生駅寄りの道沿いです。栄一が明治45年に訪れた時の写真が残っています。

              

顔振峠に「平九郎茶屋」という茶店が今もありますが、ここは平九郎が落ち延びる時立ち寄って、おばあさんにこっちに逃げた方がよいと言われましたが謝して別の道に行ったと伝えられています。


幕臣として徳川家に忠義

平九郎は、幕臣の子になり、徳川家の禄をはんでいる以上、徳川家に何かあったら忠義を示し、身を犠牲にしてでも、勤めなければいけないという意識が強くあったようです。平九郎の手紙を読んでいても、徳川家への真っすぐな思いが伝わる文章を書いています。そういう中で最後は自刃まで行ってしまった。栄一の代わりに徳川に殉じたとも言えます。

 

栄一による追悼・顕彰事業

栄一も晩年に至るまで若くして死んだ自分の義理の子に対する思いが強くて、明治以降追悼事業を行ったり、巻物を作ったりと心を尽くしています。明治26年に、元広島藩士から平九郎の刀が渋沢家に返還されます。渋沢家は感銘を受け、 これ以降、平九郎の生涯を社会に広めていこうと伝記が書かれたり、平九郎を主人公のモデルとした演劇を帝国劇場で上演したり、追悼・顕彰事業が盛んになりました。

 

  





演劇「振武軍」上演記念扇子

 






越生町で記念講演と説経節公演が開かれます。 

9月9日(日)午後1時30分開演

越生町中央公民館

講演:「渋沢平九郎―幕末維新、二十歳の決断」桑原功一氏

説経節:「飯能の嵐 渋沢平九郎自刃の段」三代目若松若太夫