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戦国時代 関東の政治の中心だった 鉢形城 (寄居町)

24万平米の広大な城跡そのまま

 
 寄居町の荒川の名勝、玉淀の河原の崖上に広がる鉢形城跡。戦国時代、関東の政治の中心地であり、後北条氏の時代は北条氏邦の居城であったが秀吉軍に攻め落とされた。
24ヘクタールの広大な城跡が、往時そのままの風情で残されている。鉢形城公園内の鉢形城歴史館の石塚三夫館長にご説明いただいた。
 

  

秩父に入る交通の要衝

-このお城はどういうお城ですか。

石塚 関東における代表的な戦国時代の城です。

-広さは。

石塚 城だけで24万平米(ヘクタール)あります。埼玉県内にこれだけの規模の戦国時代の城郭はありません。

-城の中心となるのは。

石塚 戦国時代の平山城ですので、天守閣のような場所はありません。本曲輪(くるわ)というところが中心部と考えられます。曲輪とは柵とか土塁で囲まれた空間のことです。

              

-立地が面白いですね。

石塚 鉢形は秩父に入っていく街道と武蔵・上野を結ぶ道の交わる交通の要衝です。荒川の右岸にあたり、岸は切り立った崖で、天然の要害となっており、北側から攻められることはありません。荒川と、深沢川という荒川の支流に挟まれた地域をまず縄張りし、だんだん拡張し、堀の外側に土塁で囲んだ外曲輪が設けられました。

             

-城下町はあったのですか。

石塚 江戸時代の城下町とは異なりますが、城の10倍くらいのエリアは城下となっていたようです。城の周囲には、たとえば鉢形八薬師と言って、薬師様が囲むように配置されています。

 

長尾景春の乱

-最初に造られたのはいつですか。

石塚 文明8年(1476)頃、長尾景春(かげはる)の乱で、景春が拠点としたのが史料で確認できる最初です。この頃は、室町時代で、関東は鎌倉府(鎌倉公方)が管理していましたが、補佐役である関東管領の山内上杉氏と対立関係になり、関東は渡良瀬川と利根川を結ぶ線でほぼ2分され、その東側を古河公方(鎌倉公方が古河に拠点を移したことから「古河公方」と称した)、西側を山内上杉氏が支配していました。山内上杉氏当主、顕定の家来である景春が、代々ついていた家宰職に選ばれなかったことに腹をたて、反乱を起こします。景春が、反乱の拠点として鉢形城を築いたと思われます。

-景春の乱の結果どうなったのですか。

石塚 景春は今の本庄市の五十子(いかっこ)というところに陣を張っていた顕定を攻撃しますが、扇谷上杉氏の家宰であった太田道灌に鎮圧されてしまいます。景春の乱の鎮圧で、以後道灌の評価が高まることになります。乱の後、鉢形城は関東管領上杉顕定の居城になりました。鉢形が関東における政治の中心地だったわけです。

 

5万の秀吉軍に対抗

-その後北条氏が登場するわけですね。

石塚 河越合戦(夜戦)で相模の国の北条氏康が勝利したことで、古河公方、両上杉氏の勢力はほぼ喪失。氏康の四男であった氏邦が、武蔵国北部を統治、鉢形城に入城します。北条氏にとって鉢形城は上野国(群馬県)方面に進出するための拠点でもあり、上杉謙信や武田信玄の侵攻も撃退しました。

-そして、北条氏は秀吉に滅ぼされます。

石塚 豊臣秀吉の小田原攻めは、天正18年(1590年)に始まります。北条の重要拠点であった鉢形城は、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らが率いる5万の大軍に包囲され。氏邦は1カ月半籠城した後、城を開け渡したと伝えられています。

-落城ではなかったのですか。

石塚 氏邦は助命嘆願が受け入れられます。しかし、秀吉は、手ぬるいと怒り、やはり北条の拠点であった八王子城は半日で落城しますが、家臣などは皆殺しに遭います。

-5万の大軍に対し鉢形城で戦った人数は少なかったそうですね。

石塚 伝承では守っていたのは3500人と言われています。ただ、城の大きさ、格から少な過ぎます。岩槻城で3万、小田原城は5万です。氏邦の菩提寺の正龍寺に鉢形城の由来という文書があり、13500とあり、「1」が抜けたのではないかと考えられます。

-北条氏の後は。

石塚 家康が関東に入国してからは、廃城となります。

 

昭和7年に国指定史跡に

-国指定史跡となったのは。

石塚 昭和7年に国指定史跡に指定されました。当時の国鉄八高線建設で城跡の中を通る計画があり、地元の有志が努力し、史跡としての保存を訴えました。国指定になった理由として、史実が明確で、土塁や堀、曲輪が形状をとどめていることなどがあります。24ヘクタール一括指定は、県内で例がありません。平成18年度には、「日本百名城」にも指定されています。

-現在も城の遺構がそのままあるのですか。

石塚 ほぼそのまま残っています。周りの城下だったところは、住宅など建物が建っていますが、小路名とか区割りなどはほぼ維持されています。荒川の対岸は寄居の市街地として開発されましたが、城側は街から少し離れていることも幸いしました。

-田山花袋の句碑が城跡にあるのですか。

石塚 田山花袋は、旅行ライターのようなこともしていました。当時、東上線は小川町までだったのですが、そこから馬車で寄居まで来て、寄居から武州鉄道(現在の秩父鉄道)に乗る旅の折り、鉢形城を訪れ、読んだ五言絶句の碑が建っています。

 

-公園が整備されたのは。

石塚 平成16年、埼玉国体に合わせてオープンしました。鉢形城歴史館も同時です。

-管理は誰が。

石塚 寄居町です。

   
                          鉢形城歴史館

-見学はどうすれば。

石塚 あまり看板とか説明書きとかを設置していないのですが、見学を希望される方は事前に申し込んでいただけば、ボランティア案内人という制度があります。

                     
     石塚館長

                        (取材2017年6月)