トップページ ヒキコマハジマル   健康
 
 

やきもの製の手榴弾、地雷
浅野カーリット(川越市)で製造

 やきもの(陶磁器)で作られた手榴弾や地雷。太平洋戦争末期、金属が欠乏し代用品として陶製の兵器が製造されていた。ふじみ野市の上福岡歴史民俗資料館で「戦時代用としての陶器」と題する展示会が開かれ、同市にあった「火工廠」(陸軍造兵廠川越製造所)の下請け工場であった浅野カーリット(現在の川越市萱沼)で製造した陶製兵器が展示されている(令和元年7.279.1)。陶製兵器については、川越市在住の鈴木松雄さんが平成18年に「陶製手榴弾」と題するビデオを制作している。鈴木さんにお話をうかがった。

砂利代わりに敷いた

―このビデオはどのような内容ですか。

鈴木 戦時中、南古谷村(現川越市)にあった軍需工場、浅野カーリット埼玉工場で製造された「陶製兵器」の調査記録です。工場の元勤務員の方6名にインタビューしました。もう存命の方はいません。

―この調査を行ったきっかけは。

鈴木 私は建築の仕事をしていましたが、仕事を請け負ったお宅で陶製手榴弾のかけらがいっぱい出たんです。南古谷の久下戸にあった浅野カーリットは上福岡にあった火工廠の下請け会社で、火工廠とわずかの距離です。終戦の時、未完成の手榴弾が500トンあったといいます。働いていた人は、自分の家に持ってきて、砂利代わりに敷いたのです。土を剥いだらゴロゴロ出てきた。これは何かと聞いたら、陶製手榴弾だと。

―地雷もあったのですか。

鈴木 陶製の地雷も、久下戸あたりの農家にはありました。花壇のブロック代りや、鶏の水入れや湯たんぽにしたという話も。こういう話を聞いたので、今のうちに証言録として残そうと思ったわけです。

 

   
    上福岡歴史民俗資料館展示より

―インタビューをする人はよく見つかりましたね。

鈴木 なかなか見つからなかったのですが、自宅の敷地内に浅野カーリットの守衛所だった建物がある神藤長三郎さんという方を知り、関係する近所の人を集めてくれました。

         

各やきもの産地から容器を送ってくる

―浅野カーリットは爆弾工場だったのですか。

鈴木 最初は浅野セメントのダイナマイト工場として始めたようですが、軍の仕事をやらなければ火薬が手に入らなくなりやむなく軍需工場の下請けになり、手榴弾だけでなく、地雷、機関砲弾、導火爆索だとかいろいろなものを作っていたようです。

―陶製爆弾はいつ頃から作られたのですか。

鈴木 昭和19年の夏からです。国内で金属が不足し、前年には金属回収令が施行されています。

―陶器は産地から送ってきたのですか。

鈴木 陶製兵器の容器は全国のやきもの産地で製造されました。川越で使用していたのは、主に有田焼(佐賀県)、信楽焼(滋賀県)でした。送られてきた容器の口に、ジョウロを差し火薬を入れ、割り箸のような棒で突き込み、口に起爆用信管をつけます。手榴弾を使用する時は、口をマッチのように摩擦板でこすり発火させて投げます。

           
             陶製手榴弾(鈴木氏所有)

            
            陶製手榴弾 (上福岡歴史民俗資料館展示)

           
            陶製地雷(鈴木氏所有)

―陶製兵器は実戦で使われたのですか。

鈴木 沖縄と硫黄島などで使われています。けれど、はねても(敵は)驚く程度だったでしょう。

破壊力がない

―調査でわかったことは何ですか。

鈴木 何と言っても破壊力がないということです。製造の際誤って爆発しても、顔に火傷をするだけ。お一人の方は発火試験で投げる際手の中で爆発したが、指をなくしただけで助かったそうです。鉄製なら破壊力は大きく、工場でも誤爆で周りの人3、4人が死んだこともあったといいます。これを持たされて戦地に行く兵隊もかわいそう、戦争になりません。

―日本はそれだけ追い込まれていたということでしょうか。

鈴木 これよりやりようがなかったんです。作る方も作らせる方もみんな知っていた。どうしようもない。さらに終戦間際には、瀬戸物も送って来なくなり、一升マスくらいの木箱を作りそこに火薬を入れたゴム袋を詰めて、信管つけて、釘などを入れる爆弾を作ったらしいです。

―陶製手榴弾は現地にまだ落ちているのですか。

鈴木 浅野カーリットは今のびん沼川と川越東高校の間あたり(現川越市渋井字萱沼)が工場で、11町歩(万㎡)の広大な敷地がありました。終戦時、びん沼に投棄した陶製手榴弾の容器のかけらが今も見られます。ある時、自衛隊がびん沼川の土手を掘削し、大量の陶製手榴弾を回収していきました。

証言録としてビデオ制作

―鈴木さんはおいくつですか。

鈴木 昭和16年生まれです。

―お仕事は。

鈴木 大工をしていました。

         
          鈴木さん

―早くからビデオの制作をされておられます。

鈴木 主に証言録です。昔から人の昔話を聴くのが大好きでした。6070過ぎの大工の先輩が孫みたいな人に喜んで話してくれたことが記憶に残っています。今、1世代下の人たちに伝えて、また次の世代に話してもらいたい。職人昔話とでも言いましょうか。

―ビデオはいろいろな賞をとられている。

鈴木 クラブ(川越南ビデオクラブ)として初めての作品は昭和57年の「川越といも」です。平成元年の「蹄鉄屋」は国民文化祭というところに出て文部大臣奨励賞をいただきました。

―特に思い入れの強い作品は。

鈴木 「上棟式」(平成3年)でしょうか。大工の仕事に上棟式はつきものですが、たいがいの家は略式で行っています。正式にはどうかを調べた。川越にはお城の御殿を請け負っていた大工がいて、その家には残っている。神主にも聞いて、正式な上棟式の手順を作りました。建築士会がこれはいいと買い上げてくれました。